函館本線121レ(3)



 長万部駅を出ると、いよいよ函館本線の中で最も列車本数の少ない区間に入る。長万部・札幌間で、室蘭本線経由は「海線」、函館本線経由は「山線」と呼ばれるとおり、うねうねとした山越え路線だ。朝に比べると少し雲が増えてきて、ニセコ羊蹄山の頂上は雲に隠れていたように記憶する。あまり人の気配のない山の中を、列車は程よい速さで走った。

 思うに、鉄道の魅力の一つに「レールの継ぎ目のリズム」というのがある。そしてこのリズムは、鉄道旅行の印象を決定するほど重要なのである。慌ただしくもまどろっこしくもないリズムというのは、おそらく10秒あたり5〜6回。レールは1本25mが標準なので、時速50Km前後が、程よくのんびりとした運転速度ということになる。121レは、長万部・小樽間の表定速度が38Km/hである。表定速度というのは、停車時間を引くことなく、単純に距離を所要時間で割った速度だから、実際に走っている最中の速さは、正に50Km/hくらいだったのではないか。

 しかも、「山線」は過疎の山間路線であるため、駅間距離が長い。長万部・小樽間の場合、ほとんどの駅間は5Kmを超え、10Kmを超える区間すらある。普通列車でも10分以上止まらない場合がたびたびであった。鉄道でのんびりとした時間を楽しむために、これ以上の条件はなかった。

 私がひときわ鮮明に覚えているのは、倶知安の数駅手前から乗って、私たちのボックスのすぐそばに座った女性だ。色白の、「清楚」という言葉がこれ以上似合う人はいないのではないかと思われるほど素敵な女性だった。向かい合わせに座った、おそらくは旧知の中年女性と楽しそうに話をしていた。就職に関する話だったので、高校3年生だと想像できた。私と1歳しか違わないが、ひどく大人びて見えた。倶知安で降りるまで、私はその女性の方ばかり見ていた。変な気を起こしたわけではないが、あの女性は、その後どのような大人になっているだろう、と、その後よく思い出した。

 北海道には炭鉱がたくさんあったといった事情もあり、蒸気機関車(SL)が最後まで残されていた。私が持っている弘済出版社『コンパス時刻表』1972年10月号は、「一目でわかるSL列車」というのが売りになっていて、SLが牽引する列車には、SLの正面像をデザイン化した記号が付いている。それによれば、四国と山陽、本州中央部を除くと、全国的にSLの引く客車がある程度残っているが、本線にSLが走っているとなると、山陰、九州と北海道だけになる。炭鉱の所在地を反映して、筑豊と北海道のSL残存率は圧倒的だった。長万部〜小樽の函館本線にも、3本のSL列車が残っていた。それらがいつディーゼル機関車に置き換えられたのかは分からないが、北海道で最後のSL列車が廃止されたのは1975年で、その時の特集番組は見た記憶がある。岩見沢線を走るSL列車に、森繁久弥山口百恵が乗車して、いろいろなことを語る番組だった、と記憶する。貨物や入れ換え用も含めて、翌年にSLは一切姿を消したらしい。私が訪ねた1979年までは、それからわずかに3年だ。

 121レの車内から、私はSLの余韻を探していた。煤煙で汚れた跨線橋ターンテーブル、給水塔などの施設は、まだあちらこちらに残っていたはずである。だが、残念ながら、私にはそれらを探していた記憶だけがあって、それらを見た記憶も見つけられなかったという記憶もない。また、銀山駅前後がSL撮影の名所であることは知っていて、C62が引く急行「ニセコ」のイメージを追いながら景色を眺めていた。就職した後、ビデオで「男はつらいよ」第5作を見た時、小樽機関区や銀山駅前後をD51が走るシーンに感動したが、その感動は、高校時代の函館本線乗車体験があってこそ大きかったように思う。

 小樽を出ると間もなく、海が見える。朝里・銭函間では、あまりにも波打ち際に近い所を走ることに驚いた。(1)に書いたような事情で、銭函で途中下車をして、後続の電車に乗り換え、本竜野から49時間をかけて、8月9日16:14に札幌に着いた。

 客車が全廃され、スピードアップが図られている今日、出来るだけ当時と同じような旅行を目指したら、どのような旅程を組むことが可能だろうかと思い、『時刻表』をパラパラとめくってみた。季節列車になってしまったかつての「大垣〜東京夜行」の名残、快速「ムーンライトながら」が動いている日に限り(←この縛りはけっこう厳しい)、以下のような旅行が可能である。

竜野17:46→(1870D)→18:06姫路18:18→(820T)→21:51米原21:58→(5528F)→22:32大垣22:49→(快速ムーンライトながら)→5:05東京→(山手線)→上野5:46→(525M)→7:29宇都宮7:37→(1533M)→8:28黒磯8:39→(2129M)→9:58郡山10:08→(1135M)→10:54福島11:00→(快速仙台シティラビット3号)→12:16仙台12:45→(2541M)→13:30小牛田13:46→(535M)→14:32一関14:43→(1541M)→16:15盛岡17:04→(4539M)→18:51八戸19:17→(589M)→20:49青森22:18→(急行はまなす)→0:44函館5:54→(2841D)→9:28長万部12:10→(2937D)→15:29小樽15:34→(快速エアポート160号)→16:06札幌

 所要時間は約3時間短縮されるが、ロングランの列車がないので、乗り換えが非常に多く、利用する列車の数で、1979年は青函連絡船を1本と数えても9本で済んだのに、今は19本も乗り継がなければならない。東日本大震災の影響で、常磐線回りが使えないのも痛い。東北本線では、「旅行」には適さないロングシートの電車も何本か含まれるだろう。途中、新幹線開通に伴う第3セクター化(盛岡〜青森=いわて銀河鉄道青い森鉄道)でJRが途切れているということもあり、旅費も高くつくだろう(ちなみに当時「青春18切符」はまだ存在しなかった。私たちは復路のことや、札幌到着後遊ぶ都合などもあったので「道南周遊券」という切符を利用した)。

 また、青函連絡船がなく、青函トンネル区間である蟹田木古内間には普通列車が運転されていないので、ここだけは特急か急行を利用せざるを得ないのだが、函館に0:44というとんでもない時刻に着いて、5時間待ちはつらい。特急・急行の利用を最短区間蟹田木古内)に絞ると、青森22:34→(347D)→23:28蟹田、ここで翌朝8:51まで時間待ち(!)。特急「白鳥93号」に乗ってトンネルをくぐり、9:46に木古内に着くと、更に12:28まで普通列車がない。それに乗れば、かろうじてその日のうちに札幌まで行き着けはするものの、到着は21:42になってしまう。逆に、当時よりも大幅に時間がかかる。利用する列車の数も21本だ。

 この行程なら、あえて普通列車で札幌まで、という気にはとてもなれないな、と思う。ある意味で、時代の変化とその性質がとてもよく表れている。あと5年早ければSL列車にも乗れたことを少し残念にも思うが、それでも、いい時代にいい旅が出来た、と言うべきだろう。(完)