北海道の鉄道(1)

 私は広義の「鉄道ファン」である。高校時代には、友人数名と勝手に「鉄道研究会」を作っていた。鉄道ファンにも色々と種類がある。最近の用語で言えば、私は「乗り鉄」に分類されるだろう。もっとも、「広義の」と書いたとおり、あまり熱心なファンではない。走っている車両の一つ一つについて形式を意識することはなく、「乗り鉄」とは言っても「全国の鉄道路線完乗を目指す」ということもない。バスや飛行機に比べれば鉄道がいい、鉄道でのんびり景色を眺めながら旅行がしたい、というレベルに過ぎない。(→参考記事=函館本線の記憶仙台近郊区間大旅行
 それでも一応、乗ったことのない線にはできるだけ乗りたい、という程度の気持ちはある(過去にもそんな記事をいくつか書いた=例えば札沼線)。今回の北海道旅行で、私が初めて乗った線は、室蘭本線(苫小牧~岩見沢)、石勝線・根室本線(追分~帯広)、釧網本線(釧路~網走)、石北本線(網走~上川)であった。
 まず初日、苫小牧から室蘭本線で追分まで行き、追分から特急「おおぞら」で釧路に行った。この接続が非常に悪い。苫小牧に船が着いてから室蘭本線が出るまで2時間半。30分ほど列車に乗って追分に着き、特急に乗るまでの待ち合わせ時間は1時間あまり、である。港から駅まで約1時間かけて歩き、切符を買い、昼食を取ってもまだ1時間余ったので、市街地を散策して時間を潰した。
 追分は小さな街なので困ったな、と思っていたが、駅で、歩いて15分ほどの所に道の駅があり、そこには鉄道資料館が併設されていることを知った。往復30分としても、30分以上は見物できる。私は「道の駅 安平(あびら)」を訪ねることにした。
 じりじりと太陽が照りつけて暑い中、駅前の看板地図を頭にインプットして歩くと、10分で着いた。本物のキハ183と貨物車両が屋外に展示してあり、そのすぐそばに「追分機関庫」と書かれた建物があって、ピカピカに磨かれたD51と小さなディーゼル機関車が入っている。道の駅の建物内部には展示コーナーがあり、ビデオ上映も行われている。
 時間の都合で、1本しか見られなかったけれど、追分における鉄道の歴史を描いた15分ほどのビデオは面白かった(ほぼ同内容の動画「鉄路と安平町」がYou Tubeで見られる)。美唄と夕張方面からの線路が合流する石炭輸送の拠点として、本当に栄えていたのだなと驚く。なにしろ、最盛期には鉄道関係者(職員と家族)が、追分という一集落だけで4000人も住んでいたというから尋常ではない(現在は、安平町全体で人口7500人)。
 日本で一番最後までSLが動いていたのが、追分を中心とする室蘭本線(苫小牧~岩見沢)であった。そのSL列車が廃止になる時のことは、私の記憶にもある。廃止に先立って、確かNHKが特集番組を放映した。SLの引く列車の中で森繁久弥山口百恵がSL談義をするという番組だったと記憶する。私が小学校5~6年生の時だったとは思うが、定かではなかった。今回、道の駅の鉄道資料館で追分における鉄道の歴史をたどっていて、それが昭和50年、すなわち私が中学校1年生の時であったと分かった。
 偶然、翌昭和51年4月に、追分機関庫は火事で焼失する。まるでSLの時代が終わったことを象徴するような寂しい出来事だ。その様子も動画には記録されている。
 私はSL大好き人間だが(→過去記事1過去記事2)、それがひどくエネルギー効率の悪い乗り物であることはよく分かる。道の駅にあった資料によれば、SLが廃止され、ディーゼル機関車(DL)や気動車に置き換えられたのは、炭鉱の斜陽化や煙の問題ではなく、エネルギー効率の問題だったようだ。なにしろ、DLのエネルギー効率はSLの3倍、逆に言えばSLはDLの3分の1らしい。そして、炭鉱が閉山されるに従い、そのDLさえも不要となった。
 本当は全ての動画を見てみたかったけれど、時間切れのため、あきらめて追分駅に戻る。あの繁栄していた昔の追分、子供達があふれていた追分小学校の様子を見た後には、今の追分の寂しさがなおさら強く感じられて切なかった。駅も建物こそ大きいが、無人駅である。車両基地、機関庫など存在しない。1981年に千歳線の南千歳と追分を結ぶ路線が開通し、分岐駅としての重要性は多少増し、道東に向かう特急列車が富良野ではなく追分を経由するようになったことで、かろうじて「交通の要衝」という体面を保っている。それは、路線廃止が相次ぐ北海道においては、むしろ幸せな方なのかも知れない。
 1時間を超える待ち合わせ時間は、あっという間に過ぎた。15:09発「おおぞら7号」、ピカピカの特急列車に乗って私は釧路に向かった。