「少子化」私見



 昨日は、仙台の河北新報本社でNIE(Newspaper in education=教育に新聞を)の推進委員会というのに出席していた。昨年度で宮水の研究協力校としての指定が切れたものの、引き続いて私個人に宮城県NIE委員会の推進委員を引き受けて欲しいとの依頼があった。新聞記事を教育の場で活用することや、紙の新聞が衰退するのはまずいという問題意識、県の公認組織の割には役人が姿を見せず、新聞社の方々によって活動が維持されているという気楽さと面白さによって、私は気安く引き受けた。

 形どおりの総会に続いて行われたのは、日本経済新聞社仙台支局長Y氏による「講話」であった。演題は「子供と経済について」であったが、演題と関係あるようなないような少子化についての話が大半を占めた。それでも、後から後から示される事例とデータに、私は飽きることなく話を聞くことができた。

 講話の最後に、「少子化について、教育者(学校のセンセ)の発信が足りないのではないか」という問題提起があった。Y氏は、少子化をどう評価するかということについては、慎重に話を避けていて、ご自身もあまり明確な態度で自己主張はしていなかった。ただ、現状をデータで示しながら、今後こうなりますよ、という語り口からすれば、少子化や東京への一極集中(ブラックホール化)に対する危機感は持っているのだろう。

 教育者の発信が足りないと言う場合、Y氏は、教員が「将来もっと子どもを産みましょう」などという働きかけをすることを期待しているのだろうか?Y氏が、アベノミクスの三本の矢のひとつ、「成長戦略」との関係で、政府が「50年後に1億人程度の人口を維持する」と言っていることを話のきっかけにしていたことからしても、Y氏はそれに同調していた可能性が高い。

 だが、少子化というのは、経済との関係でだけ考えれば「悪」であることに疑いの余地はないが、借金の返済や経済成長率の維持という問題を一歩離れると、評価は甚だ難しいのである。実は、この点に関して、私は昨年一度書いたことがある(→こちら)。そこで私は、食糧自給や環境問題を中心に考えると、少子化はむしろ歓迎すべきことであるとした上で、「かく言う私も、実は、少子化は困った問題だと思っているのだが、理由は経済問題にはない。話がずれるので、いずれまた・・・」と書いて、そのままになっていた。

 なぜ、経済問題を考えなかったとしても少子化は困った問題なのだろうか?その答えは、なぜ少子化が起きるか、という問いの中にある。

 私が考えるキーワードは二つだ。「エゴイズム」と「自然からの乖離」である。

 「エゴイズム」というのは、自分自身の現在の楽しみのために、結婚・子育てという面倒なことを避ける、ということである。教員の世界にもおびただしい独身者がいて、一部は、結婚・子育てをする気がありながら、「縁」に恵まれないために独身状態にあるのだが、一方で、気楽な生活を妻や子供という拘束によって失うのが嫌で、積極的に独身を維持しているらしき人も少なくない。今の自分が、両親をはじめとするどれほど多くの人の時間を奪って成長し、存在しているのかということを忘れ、自分を自分のためだけに使う、すなわち消費するだけの生活をするのは、やはり「エゴイズム」なのではなかろうか?

 子供を産み育てる環境が不十分だ、もっと社会的に支援しないと、などという意見がもっともらしく語られるのをよく聞くが、笑止千万。人間は古来、どんなに劣悪な環境で、食べる物に困っていても、生み、育ててきたのだ。今の社会状況が子育てを許さないと文句を言うとしたら、それもまた「エゴイズム」の一種であろう。

 「自然からの乖離」とは、本来、食べることで命を保ち、生き物としての自然かつ当然の営みによって子孫を残してきた人間が、生き死にや「生む」といったことについてまで、「どうすべきか?」と思索しなければならないというのは、人間が自然から離れすぎた結果だ、ということである。本来、「生み育てる」ということは、生きることの目的であって、まるでサッカーや音楽をするように、「したい」「したくない」とか、「すべき」「すべきではない」といった議論をし、選択をするような問題ではないのだ。

 つまり、「少子化」は結果に過ぎない。大切なのは、その原因である。人間が、様々な技術によって自然を改造し、自然から離れて生きるようになった結果として、思い上がり、本来考えなくてもよかったことについて、いちいち思索を必要とするようになり、自分の命を全て自分一人で消費してはばからなくなった。更に、子供が身近におらず、子育てをしない結果として、か弱いものへのいたわりや慈しみ、子供という存在そのものの中に充満している夢や希望をも失い、代わって、優しさや夢が頭で考えるものになってしまった。問題はこういったことなのである。

 では、そういった問題は、どうすれば解決し、従って「少子化」も解決するのだろうか?上に書いたような原因が、過剰な豊かさによって引き起こされたものであり、過剰な豊かさは石油を燃やすということでもたらされているわけだから、はっきり言ってしまえば、石油が貴重品となり、世の中が貧しくなって、他人と助け合わなければ生きていくことが難しい時代になった時(=文明の崖)にのみ、解決はもたらされるのだと思う。「少子化」を独立した問題として、すなわち目的語として扱って解決を目指すことは、ますます頭でっかちで面倒な社会を作り、人間を生きにくくするばかりだ。

 「少子化」自体は放置すればよい。するとすれば、エゴイスティックで人工的に過ぎる人間の生き方そのものの問い直しである。だが、それもまた頭でっかちであるかも知れない。だったらやはり、放置だ。心配には及ばない。「少子化」によって、思い通りの経済成長が実現せず、1000兆円(その時には一千何百兆円、かな?)の借金を返済することが出来なくなり、日本の経済が破綻した時、人々は徐々に生物としての人間本来の姿を取り戻し、その先に「少子化」の解決が見えてくるからだ。

 さて、こういう私は、生徒に向かって一体何を発信したらよいのだろうか?