昔に少し戻った登山大会



 金曜日から3日間、登山の新人大会というのに行っていた。場所は大東岳(1356m)とその周辺である。麓には二口(ふたくち)温泉という温泉がある。いや、「あった」と書かなければならない。そこにあった唯一の宿である「磐司山荘(ばんじさんそう)」が、おそらくは今年になってから廃業してしまったからである。お世辞にも「立派だ」とか「風情がある」とは形容できない、相当な安普請のくたびれた旅館ではあったが、3年に1度、高校登山部の新人大会を行う時には、顧問連中の程よい宿泊先兼現地本部として貴重な存在となっていた。先月6日に、前任校山岳部の沢登りに付いて行った時(→こちら)には、まだ建物が残っていた。しかし、今回は重機が入って、取り壊しの真っ最中。既に建物はなく、基礎部分のコンクリートをせっせと砕く音が響いていた。

 この宿がなくなったことで、二口をベースにした大会は行われるのだろうか、と思っていたところ、二口キャンプ場のバンガローを顧問の宿泊先として、従来どおりのコースで実施するという連絡が入った。しかも、驚いたことに、食事は全て大会総務の担当教員が自分たちで作る、という。4時起床。顧問と助っ人のOB、OGで50名にもなんなんとするメンバーに、行動中の昼食(弁当)も含めて食事を供するのは、想像を絶する困難なミッションに思われた。しかし、担当者諸氏はいたって楽しそうで、2日目には、例によって(→こちら)S先生が、地元・野尻のそば粉を使ってそばを打つ、という企画もあると聞いて、驚くと同時に頭が下がった。

 1日目、四方山話に興じつつ、芋煮、生姜焼き、キャベツとキュウリの浅漬け、といったものに舌鼓を打ちつつ、調理担当者の腕と努力に感心していたところ、顧問OBである某先生が、ボソリと、「だけど、昔はこれが当たり前だったんだよなぁ。旅館に泊まってお膳が出てくるなんて、俺達は考えたこともなかったよ・・・」とおっしゃった。

 確かにそうだったのだろう。私が顧問になってからの20年間には、既にそんな経験はない。初期には、顧問テント泊の大会も経験したし、学校の体育館、キャンプ場の集会施設といった所に泊まることは今でもあるけれども、食事は下界の仕出し屋に届けてもらっていた。だが、大会時の四方山話で、老先生たちの話を聞いていると、想像をはるかに超えた昔の大会運営の話に驚くことが多い。その驚きは、単に今と違う、というものではない。昔の顧問の忍耐と体力と情熱に対する賛嘆なのである。携帯電話や自家用車が、もともとはなかったのに、使い始めると、あって当然、ないことには耐えられない、となるのと同様、人間において、「楽」や「便利」の方向への変化は不可逆なのである。

 その意味で、今回の大会は画期的だったのだけれど、担当者の費やしたエネルギーは絶大。総務のリーダーであるO先生は、午前2時から朝・昼食の準備を始めていたらしい。それでも、山にも登りたいと、15キロ、標高差1000mの厳しいコースを自分も回り、夜は生徒のためにキャンプファイヤーを主催する。帰る間際、「先生、この2日間で4〜5時間しか寝てないんじゃないの?」と尋ねてみると、「ああ、そう言われてみれば、そんなもんかもしれませんね・・・」とカラカラ笑う。本当に人間なのか?!と思うと同時に、妙にのんびりして寝てばかりいた自分の不甲斐なさに、なんとも情けない気分になった。

 ところで、各係の先生方の努力も立派なのだが、やはり、今回の大会は天候に恵まれた。1週間くらい前には、台風の直撃すら心配したのだが、いざ当日になってみると、3日間とも快晴、ほとんど雲一つない秋晴れとなった。少し肌寒い程度の風がなんとも心地いい。1000m付近は紅葉が盛り。麓では、強く明るい太陽光線が、緑に茂る葉っぱを突き抜け、まるで新緑のような明るい緑色を作り出していた。樹林帯を抜けたところからは絶景!某女子高生が、「私もう死んでもいい!」と大喜びしていた。「なんぼなんでも、命安すぎない?」と突っ込んでおいたけど・・・。食事の準備にしても、いくらキャンプ場の炊事棟があるとは言え、たくさんの食材を運び込み、凝った作業をしていたわけだから、雨に降られていたらなおのこと大変だっただろうと思う。雨の山には雨の山の風情があるとは言え、やはりそれは負け惜しみに近い。そのおかげもあって、140人近い生徒が、誰一人として落伍することもなく、長くて標高差の大きなコースを歩き通したのだった。めでたし、めでたし。