素粒子の視点・・・人間は宇宙より大きい



 宇宙は面白い。その距離や時間のスケールといい、自然としての環境といい、そこを支配する不思議な法則といい、正に桁違いだ。それ故に、その性質を探求するための作業と費用もまた、想像を絶する。観測機器の精度や構造、観測を実現させるために乗り越えなければならない力学や温度のハードルの高さもまた、途方もないものだ。

 一方、それらに膨大なエネルギーや資金をつぎ込んだとしても、利益の見返りは何もない。せいぜい、高性能な観測機器を開発するために生み出した技術を、他の分野に応用できる可能性があるだけだ。では、なぜそんな大変なことをするかと言えば、単に知的好奇心を満足させたい、未知の世界を解き明かしたい、という衝動によっている。当然、民間企業が出来ることではなく、公によって行うしかないものだが、公もそうやすやすとお金を出すわけにはいかない。そのため、宇宙を相手とする科学者たちは、自分たちの学問の面白さを語り、専門外の人たちに興味を持ってもらうことに、相当な努力をしている。それが上手くいかなければ、研究費用が手に入らないのだ。場合によっては、素人に宇宙を語ることは、宇宙の謎を解き明かすのと同じくらい大変な作業だろう。

 以前読んだ本だが、最近、ふと気になったことがあって、宇宙関係の本を2冊読み直した。片方はバリバリの宇宙学者、もう片方は科学ジャーナリストが書いた本だが、どちらも、そんな努力の跡が見られる本だった。2冊とは、村山斉『宇宙は何でできているのか〜素粒子物理学で解く宇宙の謎』(幻冬舎新書、2010年)と、青野由利『宇宙はこう考えられている〜ビッグバンからヒッグス粒子まで』(ちくまプリマー新書、2013年)だ。どちらも、難しいことを書いている割には読みやすい。その中で、私には、前者に出てくる以下のような話に衝撃を受けた。

 「私たちの世界をどんどん拡大し、最大のスケールは宇宙全体ということだが、その大きさは10の27乗メートル。一方、ミクロの世界へ向けて、物質を構成するより小さな要素を探し求めていくと、最後は素粒子にたどり着くが、その大きさは10のマイナス35乗メートル。」

 つまり、これは、私たちの目で見た宇宙の大きさよりも、素粒子の目で見た私たちの方が、はるかに大きいということを意味する。これが驚かずにられようか?しかも、その差は8桁である。つまり、私たちの目で見た宇宙よりも、素粒子の目で見た私たちの方が、1億倍も大きいということなのである。私たちにとって、いかに宇宙が途方もなく大きいかということを考えるにつけ、素粒子の正に桁違いの小ささというのが思われて、気が遠くなってくる。更に言えば、素粒子の目で宇宙を見ると、自分の大きさの10の62乗倍となる。これくらいの数字になると、現実感などまったくなく、逆に、ただの事務手続きにしか思えない。

 作者は宇宙論を「ウロボロスの蛇」に例える。ギリシャ神話に出てくる、世界の完全性を表すシンボルで、一匹の蛇が自分の尻尾を呑み込もうとしているものだ。「広大な宇宙の果てを見ようと思って追いかけていくとそこには素粒子があり、一番小さなものを見つけようと追いかけていくと、そこには宇宙が口を開けて待っている」と言う。何かをする時に、ミクロかマクロか、どちらかの視点を持っているだけではダメで、その両方から柔軟に物事をとらえ、考えることが大切だ、とはよく言われることのような気がするが、それは宇宙の構造に由来するのだろうか?そんなことも思わされた。