白か黒か分からないのは黒である(続々)



 新しい安全保障法制について、再び違憲論が力を強めつつある。自民党推薦の参考人が、違憲論をぶったというのは、余程の異常事態である。いくつかのことを思う。

 ひとつは、人間の頭の不思議である。自民党の中枢にいる方々も、おそらく、学生時代はとても勉強がよくできたはずである。東大卒など珍しくも何ともない。弁護士だって少なくない。

 例えば、辺野古沖に米軍用の滑走路を作るか作らないかなどということは、客観的・論理的にいいとか悪いとか決められるものでは必ずしもなく、どうすることがより多くの人々の利益になり、なおかつ正義であるかという政治的判断となる。しかし、集団的安全保障や海外への自衛隊派遣が憲法と齟齬しないかどうか、というのは、政治的判断には当たらない国語の問題と思える。にもかかわらず、いうことはてんでバラバラ、私には違憲論が自明のことに思えるけれども、私よりもお勉強がよくできたと思われる人も、そうでない人も、なんだか分からないけど意見が割れる。いったい、学校で身に付けようとする論理的な思考力って何なんだろう?

 もうひとつは、結論の出し方に関する問題である。

 今日のタイトルに、(続々)と書いたのは、2012年12月3日に同じタイトルで文章を書き(→こちら)、2013年8月26日に(続)を書いた(→こちら)からである。前者は、原発、後者は環境問題を取り上げたものであった。世の中には白か黒か分からないものというのがよくあるが、その際、多数決やくじ引きで白黒を付けてはダメで、ことの性質によって、黒と考えるべき時と、白と考えるべき時がある、命に関わる問題に関しては黒と考えるべきだ、というのがその主旨であった。

 官房長官が「合憲と考える憲法学者もたくさんいる」と述べたことに対して、「具体的にたくさんの名前を挙げてみて下さい」という質問が飛び、官房長官が答えに窮して、「数の問題ではない」と言い逃れをした。確かに数の問題ではない。民主主義で支配勢力となるのは、数が多かった方であって、よりいっそう正しい方ではない。少数派にも正義がある可能性はある。いや、本当は、少数派の中にこそ正義が含まれる可能性は高い(→参考1参考2)。だが、官房長官は、やはり憲法をねじ曲げ、空洞化しようとしている自分たちの立場を正当化するために「たくさんいる」とか「数の問題ではない」と言っただけである。これは破廉恥だ。違憲だが、政治的な必要性からやらざるを得ない、という説明をしてくれた方がまだ正直で、不快感は少ない。

 今回の安全保障法制は、日本が戦争に巻き込まれ、加担する道を開くものであり、それは取りも直さず、攻撃されても文句を言えない状態を作り出すことを意味する。正に、生存に関わる問題である。しかも、一度憲法を骨抜きにしてしまえば、権力の暴走は止まるところを知らず、暴走した権力は正義と真実を希求する多くの人々を殺すことも辞さなくなること、ドイツやソ連など、歴史の多くの場面が教えてくれる。外敵の脅威よりも、内部の権力の方がはるかに恐ろしい。従って、新安全保障法制が合憲か違憲か、いいか悪いかという問題については、「白か黒か分からないのは黒」という原則を当てはめなければならない。生存に関わる場面だけではなく、精神の自由や憲法の遵守に関わる場面でも、この原則は適用されなければならないだろう。なぜなら、それらは間接的に庶民の生存を支えることになるからである。

 新安全保障法制を合憲と考える学者もいるからいい、などと言っている場合ではない。これほど重要な問題に関しては、少なくとも圧倒的多数が一致して賛成しないことはやってはいけない。白か黒か分からないものは黒、なのである。