震災よりも豪雨、豪雨よりも竜巻



 記録的豪雨による大きな被害が出た。今更驚かない。いつどこで、ということまでは分からないにせよ、このような豪雨と災害の発生は予想の範囲である(→参考記事)。「激甚災害」に指定されるかどうかではなく、被災者には手厚く支援しなければ、と思う。「手厚く」というのは、東日本大震災の時よりも、ということだ。

 巨大地震津波による災害は、純粋な自然現象である。基本的に仕方のない事であるし、被害に遭った人には落ち度が認められる場合も少なくない。一方、昨今の相次ぐ「記録的」現象は、二酸化炭素の排出に伴う温暖化が関係しているというのが世界の科学者達によっても指摘される、いわば「定説」である。地球規模での自然な温度変化の一部だと言って、人間の罪を認めようとしない人もいる。それは正しいかも知れない。だが、私は、以前から言うとおり、こと生存の問題について言えば、「白か黒か分からないのは黒」と考えるべきだと思う(→参考記事)。つまり、豪雨による災害は「人災」である。

 だが、温暖化=気象の激化に関係なく、川に氾濫の危険があることは予想が付き、その可能性のある場所に家を建てない、豪雨の時に近付かないというのは私にとっては「当然」だ。だから、申し訳ないが、私は、川の堤防近く(いわゆる後背地)に家を建てる気になる人の感覚が理解できない。

 これらのことを考える時、最近よく聞く現象の中で更に問題なのは、竜巻や突風(←おそらく竜巻なのだろうが、それが確認できない時こう呼ぶらしい)だ。なぜなら、竜巻や突風は、洪水や土砂崩れと違い、発生する場所を予想することが不可能で、対策の立てようがないからである。この竜巻類の発生が、今や驚くべき勢いで増えているように思われる。

 車で人をはねて死に至らしめることの責任は分かりやすい。しかし、日々の贅沢で自然に反した生活が、間接的に人を災害に巻き込んでいることは自覚しにくい。だが、どうしても我々全てが責任を感じるべきであり、だからこそ、竜巻類の被害者に最も手厚く、次に豪雨、そして地震津波の被害者に手を差し伸べるのは最少限にすべきなのだ。

 ところが、残念ながら世の中はそうはできていない。竜巻が1回発生して被害を受ける人はせいぜい数千人、死者は数十人というレベル(←今はまだこのレベルに達していない)であるのに対し、東日本大震災は死者・行方不明者だけで16000人である。人はまず、このような外形的なことにばかり目を向ける。しかも、大きな被害が出た時には、支援が社会現象化し、「みんなもやっているから私もしないと」という日本人一流の相対的思考が出現しやすく、商業的な宣伝効果も大きくなるから、支援は盛んとなる。一方、数十人レベルの小規模災害は、支援する側に得られるものがないから相手にされない。

 とは言え、常総市大崎市の洪水に公的な支援が継続的に為される時には、また大規模な土木工事によって堤防をより高く厚くするといったことばかりが考えられ、この暴れる自然をどうなだめるかといった根本的なことについては、議論にさえならないことが予想できる。それが、悲しくも、東日本大震災から私が学んだことである。

 ところで、金曜日の夜は、教え子やかつての同僚と気持ちよく酒を呑んで仙台に泊まり、昨日は一人で電車に乗ってやって来た息子を仙台駅で迎えると、二人で、楽天vsソフトバンク戦を見に行った。もちろん、昨日は一軍の試合である。野球とはあまり関係のない、チアリーディングなど「観客を楽しませるための仕掛け」の過剰もうるさくて好きにはなれないが、何といっても、飲食物持ち込み禁止、球場で買えば、値段の高さもさることながら、あらゆる商品を、信じられないほど膨大なゴミと共に買わされることになる、その罪悪感がまた私の大きなストレスだ(→参考記事)。「一流大好き」な私(→参考記事)であるが、やっぱりプロ野球は、観戦ルールが緩やかで派手な演出のない二軍戦の方がいいな、と思うと同時に、自然はもっともっと暴れるさ、との思いを新たにした。