自然に頭を下げる



 今日は珍しく秋らしい好天だった。さて、昨日の続きみたいな話。

 大きな経済的犠牲を払って二酸化炭素の排出を抑えても、温暖化を回避するのは極めて難しいらしい。二酸化炭素排出量が直ちにゼロになったとしても、空気中の二酸化炭素は容易に減らないからだ。労多くして益少ないどころか、労極めて大きいのに、益はゼロに近い。だから、そんなことに人間が全体として取り組めるわけがない、という話になる。

 私は、少し違うのではないか、と思っている。

 現在、日本人が、外国から膨大な量の石油を輸入して、自制心なく、ほとんど無制限に、湯水のように消費していることに対する問題意識は、今までも何度となく書いてきた。我が家からよく見える南浜町の復旧工事など、まったく正気の沙汰ではない。女川も志津川陸前高田も、「教訓にすべきは震災後の復旧工事であった」とみんなが言い出す時代は、やがて間違いなくやって来る。そして、これまた以前から言うとおり、辺野古も同じだ(→こちら)。

 だが、本当に問題とすべきは、石油を湯水のように燃やしての土木工事ではなく、むしろ、人間の利益は自然に優先する、自然は力尽くでねじ伏せればいいのだ、という思い上がった人間の姿であろう。この考え方と姿勢こそが、あらゆる環境問題の根っこにある。

 自然の一部である人間は、自然には絶対に勝てない。自然に頭を下げ、自然の恵みに感謝すると同時に、自然の強さを畏怖すること、それは自然のためではなく、自分たちが生きていくためにも必要なことである。

 私は、自然には「心」があると思っている(→参考「宇宙の心」)。人間が、今のように自然を見下し、意のままにしようとすれば、自然は想定を超えて暴虐になるが、人間が自然に降参し、謙虚に生きようとすれば、自然は想定以下でことを収めようとしてくれることもあり得るのではないか?

 と書けば、平居は科学的でない、と言われてしまうかも知れない。確かに科学的でないのである。だが、そのことを認めつつ、実はさほど科学から外れてもいない、とも思っている。心がけというのは、何か目に見える特定のことだけではなく、あらゆる所に影響を及ぼすものだ。自然に対して畏敬の念を持てば、物を浪費して二酸化炭素を増やすようなことはしないだけでなく、あらゆる場面で自然と親和的な行動を取るようになる。

 法律で人間の悪事の具体例を網羅して、全てを取り締まろうと思えば、条文が際限なく増え、それでも悪を潰し尽くして平和な世の中を作り出すことはできないだろうが、「己の欲せざる所、人に施すことなかれ」という論語の一文を誰もが心に持って実践に努めれば、自ずからあらゆる悪は消え、平和が実現するだろう。それと同じである。どうも物事というのは、好循環か悪循環のどちらかに傾くのであって、1対1の因果関係だけで終わるということはない。私にはそう見える。

 科学に全てが見えているわけではない。だから、「考え方を変えたら運が向いてきた」などという非論理的な物言いも、私は「勝手な思い込み」だとも思わないし、さほど非科学的だとも思わない。科学に全てが見えていると妄信し、今の科学に見えていないことを非科学的だとすることもまた、現代人の傲慢である。

 人間は自然に勝てない。自然に対して謙虚に頭を下げ、その恩恵を感謝するしかない。自然が暴れたら畏怖して頭を下げるしかない。それを忘れたら、人間はやがて間違いなく滅ぼされる。