ことは法律や制度の問題ではない・・・COP21その後



 もはやしばらく前の話となるが、COP21が閉幕した。従来の先進国と発展途上国がお互いを罵り合うという図式から脱却し、協調して温室効果ガスの削減に取り組む合意をしたというのは画期的だが、その後の動きを見ていると、残念ながら、およそ期待は出来ない。

 今日の新聞には、安倍首相が新規に開設した国際航空路線と増便については、国が管理する飛行場の着陸料を1年間免除する方針を決めたことが報道されていた。また、来日中のオーストラリア首相に対し、軍用潜水艦の売り込みを行っていることも報じられていた。新幹線の売り込みといい、石炭火力発電所の建設(輸出も含む)といい、COP21で合意された温室効果ガス削減目標は大変厳しいものなのに、なんとかしてそれを減らさなければというような姿勢は微塵も見えない。本当に「何一つ」だ。むしろ、それを商機としてもうける方法ばかりを考えていると見える。削減へ向けての決意を口にしながら、同時にそれとまったく相反することを恥ずかしげもなくできるから、「政治家」というのはすごい人たちだ、と思う。私にはこんな破廉恥なことは絶対に出来ない。

 ここで、私の抱いた疑問と意見とを一つずつ書いておこう。

 一つの疑問とは、「森林の二酸化炭素吸収」はあるのか?というものである。COP21では、今世紀末までに二酸化炭素の実質的排出量をゼロにするとの合意が成り立ったが、「実質的」とあるとおり、排出量をゼロにするのではなく、排出された二酸化炭素を森林によって吸収させたり、新しい科学技術によって回収・貯留することを念頭に置いているらしい。

 しかし、森林(植物)が光合成によって二酸化炭素を吸収するのは確かだが、夜間は呼吸によって二酸化炭素を放出しているし、燃やせば吸収したのと同量の二酸化炭素を放出するのはもちろん、自然に枯れて腐敗しても、多くは二酸化炭素その他に還元されてしまうはずだ。ごく一部だけが、炭素として地中に残るに過ぎない。従って、植物の一生をトータルに見ると、二酸化炭素は吸収も排出もしていないというのが正しいと思われる。地中に眠っていた石油や石炭を燃やすのと違って、トータル・ゼロという点には価値があるが、石油を燃やして出た二酸化炭素を吸収すると考えるのは間違っているのではあるまいか?しかし、頭のいい人が集まっている国際会議では、森林による吸収が二酸化炭素を減少させるものとして評価される。私の理解はどこがおかしいのだろう?今のところ解けない謎だ。

 一つの意見は、二酸化炭素減少への努力は、誰もが出来るということである。まったく、書けば陳腐だ。中・高校生に、二酸化炭素の増加や温暖化についての作文を書かせれば、(最近はそんなことやらせたことないが、以前は何度かやった)、間違いなくほとんどの生徒が「身近なこと、出来ることから始めよう」と書く。しかし、おそらく誰も何もしない。「作文」は、まったくただの「作文」に過ぎないのである。おそらく、一般の人に、温暖化についてどう思うか、それについて何をすればいいか?とインタビューすれば、同様のことになるに違いない。

 ことは人類の生存に関わる。政府が合意したことは、政府がなんとかする、法律や条令によって規制されていないことはやっていいということだ、私たちは制度上許される範囲で目一杯「豊かさ」を享受していればいい、などと考えるのはおめでたい。いかなる場面においても、他人任せでは世の中はよくならないのである。自分が出来ることは何か、それを探して最大限の努力をすることが必要だ。

 繰り返して書くが、虫のいいことを考えていてはいけない。これだけ勝手気ままな浪費生活を続けてきたのだから、犠牲を払わずに、文明のツケを回避できることなどあり得ない。自販機や宅配便でものを買わない。自家用車や飛行機を使うのは基本的に「悪」と覚悟する。森林吸収やリサイクルのようなウソ・ごまかしに逃げ込もうとしない。そういった個々人の取り組みは、意識によって可能なのである。繰り返し繰り返し、この場だけでなく、あちらこちらで訴えて歩かなければ・・・。