遂に登場!AED



 この3日間、高校登山の新人大会に行っていた。諸般の事情で、例年より1週間遅れの開催となったことで、土曜日に仙台で行われた、ショスタコーヴィチ交響曲第7番の演奏(仙台ニューフィル)を聴く貴重な機会を逃したのは残念だったが、快晴の3日間、よい仲間とぐだぐだ四方山話にふけりながら、紅葉盛りの山を歩けたわけだからよしとしよう。

 行ったのは一昨年と同じ鬼首・須金岳である(→一昨年の記事)。その時も書いたとおり、大カルデラの外輪山ということで、標高差が非常に大きく、急峻で、変化に乏しく、なかなか楽ではない山である。顧問はサブザックなのでいいが、生徒は全装備行動である(←同じ所に戻ってくるのに、テントを撤収して全て担ぐ。私が登山競技大嫌いなのは、このような不合理によっている)。加えて、天気がよすぎるために放射冷却で冷え込み、氷点下目前まで下がったおかげで、眠れぬ夜を過ごした生徒もいたようだ。

 おかげで、登山をするには最高の気象条件だったにもかかわらず、男女ともに、登り始めてから間もなく、体調不良を訴える生徒が続出した。幸い、重症者はおらず、リタイアして下山というパーティーもわずかで済んだが、隊列が頻繁に止まり、停滞を余儀なくされたので、稜線に上がる前に昼食となった時には、ヘッドライトをつけて闇夜の下山もあり得るな、と身構えた。

 大会の登山隊(男女を男子隊と女子隊に分け、隊ごとに教員の引率で行動する)には、最後尾に「救護」と呼ばれる係の人々が付いている。教員だけではなく、OB・OGである大学生も混じっている。彼らは、山中での救急処置や、リタイアパーティーの下山引率をする。そのために、いろいろな救急用品を持ち歩いている。安全対策と称して、実にいろいろなものを持って行くので、彼らの荷物はとても重い。

 今回、その荷物の中になんとAEDが加わっているのを見て驚いた。山の中で突然心停止を起こした場合、蘇生させるためにAEDは必須だ。だとしたら、負担が大きいなどとは言っていられない。なんとしてでも持って行かなければ・・・ということだ。しかし、例によって、私はあまりそうは思わないのだな。いくら救護専門の係がいて、強力な若者が多少の荷物は運び上げてくれるとは言え、決して軽くも小さくもないAEDを山に持って行くというのは、私の感覚では過剰防衛だ。何か事故があった時に、少々無理なことでも、やれることはやっておかなければ過酷な批判にさらされるため、萎縮し無理をしている学校の現実を表してもいるだろう。

 最近は、学校を始め、あらゆる所にものすごい勢いでAEDが常備されるようになっている。申し訳ないことに、私は、AED製造メーカーが政治家に大量の献金をして、いかにもAEDが常備必須であるかのように思い込ませる工作をしているのではないか(しているに違いない!)、と勘ぐっている。突然、心停止を起こす人がどれくらいの確率で存在するのかは知らないが、日本全国どこでも、人が心停止を起こした場所から3分以内の場所に必ず一つはAEDがあることを目指すとしたら、私にとっては狂気の沙汰である。バカバカしい津波対策と同じで、いくら「命」が掛かっているとは言っても、できることには限度があり、節度も必要だ。命などというものは、しょせん「運」に頼って維持されている面も大きいのだから、「命」を錦の御旗として、平時に負担が掛かるようなことはあまりすべきでない。私だったら、自分が心停止した時に、すぐ近くにAEDがあるのに使ってくれなければ腹も立つが、たとえ街の中だったにしても、AEDが近くに常備されていないといって腹を立てたりはしないだろう。どうしても突然の心停止が心配だという人は、四六時中、自分で持って歩けばよいのである。

 標高差900m、AEDを担ぎ上げ、担ぎ下ろしてきた某君は「ご苦労さん」だった。