無ければ無いで済む?

 山形県の某中学校保険体育科教諭が、32年間にわたって教員免許無しで勤務していたというニュースが報じられた。提出を求められた際には、手元にないなどと言ってごまかしながら、のべ7700人の生徒を教え、1億数千万円の給与を受け取っていた、という。
 新聞各紙の記事では、いかにもその女性が悪いような書き方だが、教員免許の確認をせずに採用した教育委員会の責任は、それ以上に重いだろうと思う。過去に支払った給与の返還を求めるという県の談話も載っていたが、自分の責任を棚に上げて苛酷な取り立てをするとは言語道断。なかなか評判のいい先生で、過去の授業内容などを調べても問題はないので、補習などは行わず(←出来るわけがない!)、単位を取り消したりはしないという(←当たり前だろ!)。だとすれば、地位に見合った仕事をしていたということであり、給与は、仕事という実質に対して支払われたのであって、教員免許という形式に対して支払われたわけではない。
 ある一定の何かの目安として、教員免許は必要なのかも知れないが、そもそも教員免許というものは、残念ながらほとんど何の技能をも証明しないのである(→教員免許についての過去記事)。大学や予備校の先生には資格というものが不要で、それでも不都合はない。いや、あっても、「では大学教員免許なるものを設定しよう」とはならないのだから、小中高校でも、おそらく免許なんて無ければ無いで済むのである。教員免許は、教員という存在を多少ありがたく見せるための装置であるに過ぎない、とも思う。ともかく、大学で授業を受けて取得する「免許」など何の役にも立たないほど、学校という場所は、複雑怪奇な人間関係への対応力、つまりは人格や人間性という得体の知れないものが重要な場所なのである。
 教員免許を持たない人間が中学校の教諭になることが出来ないという規則があり、山形の某教諭もそれを知っていながらごまかしていた以上、免職になるのは仕方がない。だが、こんなことをマスコミがこぞって宣伝する必要はない。教員免許って一体何なの?という問い直しを行い、それによって教員免許更新制などというバカげた制度の批判を大々的に始めるなるのならよいのだが・・・あれ、もしかすると、今回の件は教員免許更新をきっかけに発覚したわけだから、ことは制度を強化する方向に進んだりして。