教育勅語

 森友学園の幼稚園で、園児が教育勅語を暗唱させられていたという話もあった。その件についての予算委員会で、なぜ防衛大臣が答弁に立ったのだったか、それは忘れてしまったが、「教育勅語がまったく誤りだというのは違う」とか「日本が道義国家を目指すべきだという精神は取り戻すべきだ」といった発言をしたことは印象に残った。
 当然、考えを等しくする人たちは喝采を送ったのだろうが、なにしろ明治憲法下の教育勅語である。大臣がその価値を認めたとして反発する勢力もまた相当数に上ったようだ。
 私も、なんとなくいかがわしい感じがするな、と思ったが、実は「教育勅語」(正しくは「教育に関する勅語」)をまじめに読んでみた記憶がない。読んだことがないのではなく、忘れてしまったのだとは思うのだが、現在ものを考える上で不都合であるという点では何ら変わりがない。
 中身もよく分からずに文句を言うのはまずいな、と思ったので、この際、丁寧に読んでみることにした。とはいえ、全部で369字。原稿用紙1枚分にも満たない短い文章である。いくら片仮名交じりの擬古文とは言え、読むのにさほど手間はかからない。
 ははぁ、確かにこの文章をありがたがるのはちょっとまずいぞ、と思った。大臣は「勅語の精神は親孝行、友達を大切にする、夫婦仲良くする、高い倫理観で世界中から尊敬される道義国家を目指すことだ」と言ったらしいが、これは大変恣意的な読み方である。
 確かに、「親孝行」から「夫婦仲良く」まではその通りだが、「高い倫理観で〜目指すことだ」というのはどこに書いてある話か分からない。大臣の願望でしかないだろう。ただし、この場合の願望とは、大臣が日本という国を「高い〜道義国家」であって欲しいという願望ではなく、教育勅語がそのような内容のものであって欲しいという願望であり、なぜそのような願望を持つかというと、教育勅語が否定されるべきものであって欲しくないという願望があるからに違いない。まず教育勅語が大切で、それを価値あるものとして意味づけるために、理屈が後付けされているのである。これが弁護士のすることか?
 教育勅語の内容には問題がある。「朕」や「臣民」といった呼称は、単に呼称と割り切って文句を言わないことにしたいところだが、「朕が忠良の臣民」とか言われると、さすがに心理的抵抗を感じる。「常に国憲を重んじ国法に従い」というのは、一見おかしくないようだが、国憲(=『広辞苑』によれば憲法)が大日本帝国憲法であることを考えても、それを守る主体が誰なのか?(憲法を守ることを天皇を始めとする公務員に求めるのではなく、国民に求めている)ということを考えても、素直に読めない部分だ。
 Wikipediaの「教育に関する勅語」を開いてみると、内容の解説として、教育勅語に出てくる12の徳目が箇条書きされている。その最後、第12番は「一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」となっている。「以て」が第12番の徳目だけを受けるかのような読み方は正しいのだろうか?
 教育勅語には文が5つしかない。その中でも、特に12の徳目を列記した第3文は長く、その最後の部分が上の通りだ。どうも私が読むと、12番目の徳目について「以て天壌無窮の〜」と言っているのではなく、1〜12番までの全ての徳目を受けて、「以て天壌無窮の〜」と言っているようにしか見えない。つまり、親孝行も、兄弟・夫婦仲良くすることも、友達と信じ合うことも(以下省略)、全ては「永遠の皇室を支える」ことの手段でしかない。逆に言えば、国民は12の徳目を実践することで、皇室を支える(=皇国たる大日本帝国を繁栄させる)存在なのであり、全ては皇室を支えるためにのみ価値を持つのである。この思想は、個人で密かに信奉するならともかく、少なくとも学校教育の場で尊重することは、決して許されるべきではないものだろう。
 親孝行は悪いことではない。兄弟・夫婦・友達が仲良くすることも、社会のために生きることも必要だろう。その意味で「教育勅語がまったく誤りだというのは違う」というのは間違っていない。だが、その程度のことは、教育勅語を持ち出さなくても、自分の言葉で語ればいいだけのことだ。教育勅語の表現が文学的に素晴らしく、人の心を揺さぶるというのならともかく、決してそんな立派な文章ではない。にもかかわらず、部分に着目して、教育勅語を肯定的に扱うのは、やはり問題がある。
 文章には精神というものがあるのであり、その精神を踏まえながらしか読んではいけないのだ。教育勅語の精神とは、皇国日本の翼賛である以上、そこに「高い倫理観で世界中から尊敬される道義国家を目指すことだ」という解釈を無理矢理こじつける精神は、当時の国家体制全てを肯定的に見、従って現在の体制を否定することになる。そういう人が今の世で権力を持つというのは恐ろしいことである。