森友学園批判への批判

 大阪の森友学園に関する報道は、私もそれなりの関心を持っていた。もっとも、この問題については多くの人が色々なことを言っていて、私ごときが付け加えることがあるようにも思えない。
 確認だけすると、一つは幼稚園で園児に「安倍首相 頑張れ!」「安保法案 国会通過良かったです」「大人の人たちは日本がほかの国々に負けないよう、尖閣列島竹島北方領土を守り、日本を悪者として扱っている中国・韓国が心改め、歴史教科書でウソを教えないようお願い致します」と叫ばせた異常である。ただ、多くの人が異常だと言うから異常なのではなく、これが本当に異常なのか?なぜ異常なのか?は冷静に考えてみる必要がある。
 だが、やはりこれは異常(悪い)である。園児にはとうてい理解できないことを無理矢理すり込んでいるからであるが、更に、なぜそれが悪いかと言えば、そもそも人間には批判的思考能力というのが非常に重要だからである。批判的思考能力とは、絶えず正しさを疑い、それ故に正しさを指向するものである。
 もちろん、一定の思想から完全に自由になることなど絶対に出来ないので、多かれ少なかれ、特定の思想をすり込むということは起こってしまうのだが、あくまでも批判的思考能力の大切さを踏まえ、基本的生活習慣(しつけ)に関わる部分や社会常識でのみ最低限のすり込みが許されるのであって、イデオロギー的な部分で許されてはならない。それは洗脳であり、民主主義社会を内部崩壊に導くものである。
 更に、今回と逆の内容、すなわち「安倍政権打倒!自民党粉砕!戦争法案を廃案に追い込もう!」などということが唱和されていたら、政権は学校を正に袋だたきにするだろうという想像をすると、いくら問題視されているとは言え、問題視のされ方がこの程度でしかないことに恐怖を感じる。
 もう一つは、土地からゴミが出てきたことによる8億円割引の胡散臭さである。しかも、本当にゴミが処理されたかどうか確認する必要はない、という財務大臣答弁や、与党が籠池理事長の参考人招致を頑なに拒んでいる様子を見ていると、疑念はいやが上にも増してくる。この学園の土地購入や認可に関する手続きは、正に奇々怪々なのであって、相当大きな政治権力(有力政治家の口利き)の介入なしに、それら奇々怪々が実現したとはとうてい思えない。これは徹底解明してもらわなくてはならない。
 で、今日の主題はこんなことではない。私が考えてみたくなったのは、一つに、開校しようとしていた森友学園小学校を認可していいのかどうか?という問題である。えっ?お前はバカか?あんな学校の開校を認めていい訳がないではないか!と反射的に言ってはならない。認可するとかしないとかいうのは「権力」であり、権力が恣意的な振る舞いをすると非常に恐ろしい、ということを踏まえれば、権力は小さいに越したことがないからである。果たして、権力による不認可がどうしても必要なことなのか?
 権力があえて「不認可」にしなくても、子供をそんな学校に通わせたい親がほとんどおらず、開校はしても経営が成り立たないからやがて倒産、ということも起こり得る。本当に邪悪な学校は、そうして淘汰されるのが一番いい。もっとも、世の中には変な人(←あくまでも私の価値観)が必ずいるので、森友学園小学校、否、もっと怪しげな学校でも、そこに子供を入れたいという親は現れるだろう。だが、それが少数に止まっている限り、社会的な害は決して大きくない。たとえ、認可をすれば国に補助金の負担が発生するにしても、むしろ、権力によって無理矢理純化させるよりは、権力を抑制し、異端が多少存在することによって、世の中が窮屈でなく、円満に収まることのメリットの方が大きい。その意味で、森友学園小学校は財政的な問題さえなければ、認可してもよいのである。
 だが、ドイツにおいてネオ・ナチの増加が常に危惧されているように、人間が全体として正義を指向する、悪には自然に歯止めがかかる、などという保証はない。「劇場政治」の舞台となる日本の選挙を見ていても、正邪とは関係なく、雰囲気や気分で社会の方向性が左右されてしまうということは往々にして起こる。だとしたら、何かしらの社会システムによって、誰かの自由を制限し、学校の設置についても規制を掛ける必要がある、ということになる。さて、その規範はどのように設定すべきか?「森友学園なんてケシカラン!!」と気軽に言える問題ではない。