続・テロップの横暴

 元々存在していながら気にならなかったものが、ある瞬間から猛烈に気になる、ということが時々ある。最近の私について言えば、それはテレビのテロップである。これについては先月一度書いた(→こちら)。あのラトル指揮ベルリン・フィルによるマーラーの余韻を邪魔されたことが、よほど私の神経を逆なでしたのだろう。
 その後も時々テロップを目にしてはいらいらしていたのだが、今月の初日、例によって「プロフェッショナル」を見ていて、ついに堪忍袋の緒が切れた。ちょうどその時期は、内閣改造が行われていたのだが、大臣が一人内定するたびにテロップが出るのである。例によって(→参考記事)、あわよくば教材化と思って録画していたのだが、あの45分番組の途中に、いったい何回テロップが流れたのか、見直して数えてみよう、という気にさえならない。10月8日、私はついにNHKにクレームを送った。文面、以下のとおりである。

「テロップが多すぎると感じます。スマホをほとんどの日本人が持ち、防災無線等もある中で、なぜこれほど頻繁に、さほど緊急性があるとも思えないテロップが出るのでしょう?最近、素晴らしい番組の最中に、うんざりするほど興醒めな瞬間が増えています。特に、先週の「プロフェッショナル」はひどかった。映像制作者の立場からしても、自分たちの作品に傷がついたという意識にはならないのでしょうか?日本人特有のおせっかいであると同時に、番組制作者の職業意識(誇り)を疑います。一瞬が生死を分けるほどの事態でない限り、テロップは出さないでください。(総合、Eテレに関わらずすべて) 」

 もちろん、何の力も持っていない一市民がこんな文句を言ったところで、おそらく何の影響もないだろうということは覚悟していた。だが、一人でも多くの視聴者が、繰り返し主張しないことには何も変わらない。その小さな石つぶての一つ、という思いである。
 毎週日曜日の夜は、子ども達が大好きで見ている大河ドラマに付き合う。今放映している西郷隆盛の伝記「西郷どん(せごどん)」は、なかなかよく出来たドラマだ。「子ども達が大好きで」「付き合う」は言い訳がましい。私もけっこう熱心に見ている。
 今週の「西郷どん」は、西郷の人生のクライマックスとも言える戊辰戦争だった。自分の弟を含む多数の犠牲者を出して、長い長い戦争が終わると、西郷隆盛は幼い頃からの盟友・大久保利通に、表舞台から引退して薩摩に帰りたいと訴える。もう疲れ果てた、と同時に、何か胸に迫る思いがあって決意したことを告げる、切々たる場面だ。
 その瞬間である。ジャイアンツの菅野がクライマックスシリーズノーヒット・ノーランを達成したというテロップが流れたのは。あまりにもメチャクチャだ。これは明らかにNHKの誰かが、自分の趣味に基づいて流したとしか思えない。こんな情報が、まったく違う目的や関心によって真剣に番組を見ていた人たちに、公共放送の責任で1秒を争ってどうしても伝えなければならないことであるわけがない。
 上に引用したNHKへのクレームにも書いたが、テロップの問題は、番組制作者の作品(映像)に対する愛着、思い入れ、プライドと表裏一体だ。テロップが気軽に流れるということは、番組が軽い気持ちで作られるということである。番組を真剣に磨き上げていれば、社内の人々がそもそもテロップを許さないはずだ。
 NHKの番組にはいろいろと政治的な偏向を指摘する人も多い。だが、NHKスペシャルを始めとして、特に自然や芸術をテーマとしたドキュメンタリー系の番組は、科学的にも芸術的にも非常に質の高い、正にNHKでなければ作れないものが多い。そのために、私は、総じて、NHKが公共放送として準税金たる受信料で存在していることを肯定している。だが、この質はどこまで保ち続けることができるだろう?テロップを見ながら、番組制作者の職業意識を疑っては、将来へ向けて一抹の不安を覚える。