原理主義者にとっての定年制

 首相が定年を70歳まで延長する考えを示している。既に、年金の支給開始年齢に合わせる形で、定年を迎えても、年金がもらえるようになるまでは再任用という形で、実質的な定年延長が行われている。給与は確か4割減くらいだったはずだ(←不確か)。定年退職後の再任用ではなく、定年そのものが延長されるとなれば、給与も減額されないのではないか、と浮かれている人がいるらしいことは耳にしたことがあるが、世の中はそんなに甘くない。定年延長になっても、給与はそれなりに減らされることになりそうだ。再任用と比べて減額の幅が大きいのか小さいのかはまだ分からない。
 職場では、「えーっ?!まだ働かせるの?」「やってらんねぇよ」という不満も聞かれる。積極的に歓迎する意見に接することはほとんどない。
 しかし、私は肯定派である。「なに?平居は安倍の支持者か?」などと言われるのは甚だ心外。私の考え方というのは、常に原点に忠実に、なのである。この場合の原点というのは、もともと人間がどのような生活をしていたか、である。私たちは、そこを出発点として、何をどの程度付け加えることが許されるのか、という考え方をすべきであり、原点からの距離を自覚することによって、安穏たる現在の生活のありがたさも身に染みてくる、というものである。
 他の動物が、自分の餌は死ぬまで自分で確保しなければならず、それが出来なくなった時には死ぬしかない、というのと、人間は基本的に変わらない。おそらく、昔の人は死ぬ間際まで働いていた。食糧を手に入れるという意味で働けなくなっても、家の中の仕事はしなければならなかっただろうし、仮にその仕事をする必要がなかったり、仕事が出来ない体になったりしたら、子が親を養うというのが当然だったはずだ。昔流の定年としては、「隠居」というのが確かにあった。しかし、それは大金持ちの特権であったはずである。もちろん、公的年金というようなものは存在せず、自分の蓄えか、やはり子どもの援助で生活が成り立っていたはずだ。
 それと現在の姿を比較してみると、60歳で定年退職して悠々自適、豪華クルーズ船に乗って地球を一周したいとか、そこまで行かずとも、年に1度は海外旅行がしたいとか、毎日釣りに明け暮れたいなどというのは「寝言」である。どうして今のような制度が出来たのか、理解に苦しむほどだ。ひとえに石油を燃やすことで手に入れた豊かさあればゆえでしかないのだが、もしかすると、例によって、政治家の国民に対するご機嫌取りが出発点だったのではあるまいか、などと思ってみたりもする。
 というわけで、私は体が動く限り、65までであろうが、70までであろうが働くことに抵抗がない。もちろん、「しんどいなぁ」という気持ちはあるが、思想がそれを封じ込める。人間がより長く働くことは、ぼけの防止にもなり、健康寿命を長くすることにもなるだろう。
 ただ、30歳の時の自分、40歳の時の自分と今を比べてみると、働き方(教育についての思想)に大きな違いがあるのは確かであって、それが経験による進歩(深化)なのか、衰えなのかは、自分では判断できない。65歳でも働いているとすれば、働き方は更に変わったものになっていることだろう。その変化が同僚や生徒にとって好ましいことなのかどうか、むしろそちらが問題だ。
 首相が定年延長を言い出したのは、社会保障費を抑えること、経済成長を維持することが目的だろう。彼には私のような哲学なんか絶対にない。だから、結論がたまたま一致しているからと言って、「平居は安倍の支持者か?」と言われるのは不本意だ。物事は、結果だけではなく、動機(理由)というものもまた重要なのである。