苦闘、南アルプス(3)

 これ以降は、幾つかのテーマに絞って、感想を箇条書き風に書いておくことにする。

【素晴らしかった山】

 同じ赤石山脈中の山とは言え、形状も異なり、それぞれ独自の雰囲気というものがあって面白いものだ。私が最も魅力的だと感じたのは荒川岳、次が北岳、そしてその次が赤石岳、これらがベストスリーといったところだろう。
 荒川岳は、昨日書いたとおり頂上が三つあり、それが一つの変化を作っている。更に、前岳と中岳の南側には実に典型的で美しいカールがある。地図やガイドブックを見ると、荒川岳北西面もカール、赤石岳東側にもカールがあることになっているが、どうもそれらははっきりしない。その点、荒川南面のカールはモレーン(氷河堆積)が非常にはっきりと残っていて、標本にしたいような美しいカールだ。規模は決して大きくないが、なにしろ浸食の激しい山である。氷河期には今よりももっと高くて大きな山だったために、氷河の上端も高くて、今目にするカール以上の大きさがあったのだろうと想像した。
 カールの脇を通り過ぎ、一つ西の斜面に入ると、今度はお花畑だ。これほど広く、花の数が多いお花畑を私は見たことがない。むっとするような甘ったるい花のにおいにも驚く。そう言えば、高校の授業で使う地理の図録だったか、何かの教科書だったかで、「高山植物群落」の代表として紹介されていたのがここであったと思い出した。
 北岳は、日本第2の高峰であるが、そのこと自体は山の魅力とさほど関係ない。この山の魅力は、東側にせり出した大岩壁(バットレス)、その更に東側に残る大きな雪渓、鋭く天を突き上げるような頂上、といった要素の混在にある。キタダケソウのような花の固有種もある。
 赤石岳は、小赤石岳を従えた堂々たる山容が美しい。また、私にはその成り立ちについての知識が乏しいのだが、山頂から南側に広がる赤い岩塊の風景は、非常に独特なものである。火山爆発の跡のようにも見えるが、赤い石の大半はチャート(放散虫の堆積岩)のようなので、必ずしもそうではないのだろう。

【怖かった山道】

 ガイドブックには、登山道が危険であるというようなことは全然書かれていない。ところが、なかなか大変なルートであった。特に、仙塩尾根の雪投沢源頭から塩見岳の頂上まで、小河内岳の前後、荒川前岳の北西部などは、絶対に生徒を連れては行きたくないどころか、私自身も再び行きたいとは思わない所である。
 ガイドブックには「南アルプスは侵食が進んでいないために、おおらかな山容が多いことも特徴である」と書かれているが、それはマクロの視点で見れば、また、北アルプスと比べてみれば、というだけの話である。
 稜線のあちらこちらが崩落し、崩落箇所の縁をかろうじてすり抜けるような場所が何ヶ所もあった。いくら垂直ではないとは言っても、バランスを崩して谷側に落ちれば、滑落を止めることは不可能で、数百mは落ちる。数十階建てのビルの屋上の縁を歩くようなものである。私は決して高所恐怖症というほどではないと思っていたが、それでも足がすくみ、それを繰り返しているうちに、ほとんど拒否反応と言ってよいほどに恐怖感が増していった。
 単純な縦走形式の登山では、こんな恐怖と緊張を感じることなく、風景と動植物を愛でながら、のんびりと歩きたいものである。

【水は命の源】

 楽しく山登りをするための要素としてもう一つ大切なのは、いい水がふんだんに手に入ることである。この点でも、今回のルートは決して楽なものではなかった。
 山岳地図にもガイドブックにも載っていないが、広河原から八本歯のコルまでの大樺沢沿いの登山道は、枝沢が流れ込んでいる場所も多く、随所でいい水が手に入る。北岳山荘は水が引いてあって、小屋の入り口に設置された水道めいた蛇口から、いい水がふんだんに手に入る。熊ノ平の小屋も水源がすぐ隣だ。ここから丸々1日半の高山裏避難小屋までの間が大変。途中、登山道沿いに水場はない。
 山岳地図に水場のマークが付いている雪投沢源頭は、水場があまりに遠くて行く気にならなかった。おそらく、少なくとも往復20分はかかる。
 塩見小屋は、宿泊者に対しても天水500mlが配給されるだけ。それで足りない人は(普通は足りない)、ヘリで運んできたペットボトル入りのミネラルウォーター(2リットルで700円だったかな?!)を買うか、水場まで自分で汲みに行くことになる。もちろん、やむを得ず私は自分で水場に行った。私以外に、自ら水場に行っていた人を見なかった。歩きにくい急坂を往復40分である。汗をかくので、水場の帰りに水を飲む。2.5リットル汲んだ水が、小屋に戻った時に2.2リットルくらいになっていたというのは、ほとんど笑えないジョークの世界である。北岳から9時間歩いてたどり着き、その後で40分の水汲みは辛い。三伏峠の水場も、登山道から歩いて往復20分。高山裏避難小屋の水場も、往復で30分近くかかる。
 高山裏避難小屋を出ると、20分歩いたところで、道端に湧き水があり、次は荒川岳を越えてお花畑の下で川を渡るところがあり、荒川小屋でも水場は小屋のすぐ近くだ。百間洞の小屋の前は沢で、水はふんだん。ただし、沢を使わなくても、引かれた水を水道水のように使える。そこから聖岳を越えるまでは水場がないが、山頂を越えて下ると、岩壁の脇で水の手に入るところがある。次は聖沢小屋だが、ここも小屋に水が引いてあって、水の心配はない。下山路も、途中枝沢がたくさんあって、水に困ることはない。
 とにかく、水に関して本当に手に入りにくいのは熊ノ平から高山裏までであったが、私が上に書いたような水情報が意外に出回っていないため、他の所に関しても、絶えず水の心配をしていなければならない、もしくは重い水を過剰に持ち歩かなければならない、ということになってしまった。水は命の元である。それを本当に実感した。