新鮮!!『零の発見』

 毎日の通勤に使っている電車は、高校が授業を再開した6月1日以降、だんだん混むようになってきたが、大学がまだ授業を始めていないらしく、石巻で座るのに困るという状態ではない。本当に助かる。
 毎日、乗っているのはほぼ同じ顔ぶれだ。だからと言って、話をするようになったりということはない。みんな、毎日ほとんど同じ車両の同じ席に座って、お互いの顔はよく知っているのに、まったく知らん顔をしている。すごく不自然だという気もするし、気楽でいいという気もする。
 私が乗る電車は、改札口のすぐ前に先頭車両が止まる。そのため、後ろの車両ほど改札口から遠く、混雑が少ない。従って、コロナ騒ぎが始まる前は、3両目か4両目に乗ることが多かったのだが、今は空いているため2両目に乗る。すると、塩釜駅で改札口に降りる階段のすぐ前で止まるのだ。
 さて、一昨日のこと。私の目の前に、見慣れない高校生らしき男の子が座った。半袖・半ズボンという軽装である。ひどく日焼けしていることもあって、学校に行くというより、どこかにスポーツの練習にでも行くように見える。おそらく、仙台市内の私服の学校の学生なのだろう。今どきの若者らしく、荷物からケーブルが伸び、イヤホンを付けている。音は漏れてこないので、何を聴いているかは分からない。
 たいていの高校生がスマホを取り出し、何事かを熱心にやり出すのに対し、この青年は荷物の中からおもむろに新書を取り出して読み始めた。何を読んでいるかなど興味があったわけではないのだが、その青年が一瞬本を閉じ、外の景色に目をやった瞬間、その本が岩波新書の旧赤版『零の発見』であることが分かった。
 えっ!!??今どき、こんな本を読む学生がいるの?最近にない大きな感動だった。スマホでラインかゲームという高校生、あるいは、せいぜい、学校の授業の予習・復習という高校生がほとんどであることを思うと、『零の発見』は衝撃だった。
 私は、数分間にわたってひどく葛藤した。その青年に声をかけるかどうかである。なんだか、友達になりたいような気がしたのだ。『零の発見』をどう思うか、尋ねてみたい気もしたし、将来何を学ぼうとしている学生なのかも知りたくなったのだ。かなり悩んだ末、私は結局声をかけなかった。昨日も今日も、その子の姿は見なかった。
 吉田羊一『零の発見』は、1939年刊の岩波新書旧赤版である。大半が戦前に発行された旧赤版で、今でも買えるものは少ない(と思う)。斎藤茂吉『万葉秀歌』(2冊)、アインシュタイン『物理学はいかにして作られたか』(2冊)、鈴木大拙『禅と日本文化』くらいしか、私は思い浮かべることが出来ない。果たして、何冊出ているだろう?
 Wikipediaで「岩波新書」を引いてみると、旧赤版の発行部数ランキングが載っていて、『零の発見』は刊行以来91万4千部を売り、『万葉秀歌(上)』に次いで堂々の歴代2位ということになっている。
 私は、高校時代に、恩師の勧めで初めて読んだ。なぜ「名著」と言われるのかよく分からなかった。その後、もう分かるようになったかな?などと思いながら、時々書架から取り出してはページをめくってみたりしていたのだが、最近では、2年くらい前に、ちょっとした事情があって、久しぶりで目を通した。残念ながら、やはり、なぜこれが「名著」なのかはよく分からなかった。更には、「ここをこうすればもう少し分かりやすくなるのに」というような、表現上のアラが結構目に付いた。
 ただ、この本は、その古めかしさもあって、学問への憧れを妙に感じさせてくれる本である。だからこそ、今から伸びんとする若者が手にしていることは、期待を感じさせるのだ。その高校生(?)が、なぜこの本を手にしていたかは知らない。だが、大人は、スマホを取り上げて、このような古典的名著をこそ与えるべきなのだ。私の興味関心は、彼の家庭環境にまで広がっていったのであった。大げさでしょうか・・・?