今の技術、昔の技術

(10月8日付け「学年だより№64」より①)

 

 先週の「十五夜」は本当にいい月を見ることが出来た。10月に入り、塩釜神社では早くも「モミジのドラマ」(→こちら)が始まった。衣替えにもなったし、秋の深まりが感じられる。サンマの記録的不漁(←知ってるよね?)は寂しくもあり、不安でもあるが、食べ物が美味しい季節である。
 さて、今日は諸君の「教養講座」感想に対する私の感想特集である。

 

(その1)
 「今の技術でも難しいのに~」「昔の人は低い技術でよく出来た」というような作文が目に付いた。これらの言葉に見えるのは、昔から今に向かって、技術はどんどん進歩し続けているという考え方だ。果たして本当だろうか?
 「ストラディバリウス」という言葉を聞いたことがあるだろうか?17世紀にイタリアで活躍したバイオリン職人アントニオ・ストラディバリ(1645年頃~1737年)が作った弦楽器(主にバイオリン)のことだ。作られてから約300年。史上最高の名器だという評価は揺るぎなく、売りに出れば、たった1挺のバイオリンが数億円以上で取り引きされる。
 現代のバイオリン製作者は、ストラディバリを目標にして努力を続けているが、なかなかそこに到達することは難しい。ストラディバリの偉大さもさることながら、バイオリンという楽器が、300年前、既に改良の余地がないほど完成されていたことにも驚く。だから、ストラディバリウスが求められ、目標にもなり得るのだ。
 西本願寺に使われている技術の多くも同様である。今の職人は、昔の人の技術を目指して努力している。私たちは、いかにも昔から今へ向けて全てが進歩しているように思いがちだが、おそらくそれは誤解だ。私が見たところ、それは進歩ではなく変化であり、どのような変化かといえば、「時間をかけて、少量ではあるが質の高いものを作る」から「短い時間で、質の悪いものを大量に作る」への変化である。そしてそれを可能にしているのは、人間の能力というよりも、文明(=ごく簡単に言えば「石油を燃やすこと」)の力に過ぎない。
 諸君はスマホを使って写真も撮れれば、全世界にメッセージを発信することも出来る。だが、それはスマホを開発した人が偉いだけで、諸君が努力してそんな力を獲得したわけではない。
 古いものを見る時には、昔の人より現代人の方が優れているという先入観を排除し、謙虚になることが必要だ。私が古典を読む時によく言うとおり、「いいものしか古くなれない」という法則は間違いなくあるのだから・・・。