庁務さんの仕事

(7月14日「学年だより№14」より②)


【多くの人に支えられた学校生活・・・庁務さんの巻】


 最近、中庭がとてもきれいになったことに気づいていただろうか?1週間あまり前には、カビや苔のようなものがたくさん付着して、黒かったり緑だったりしていたタイルが、今はすっかり元の色になっている。もちろん、自然にそうなったわけではない。庁務さんが、ケルヒャーという機械を使って、2~3日かけて掃除をしてくださったのである。
 学校には、先生だけではなくて、いろいろな人がいる。「縁の下の力持ち」というやつで、諸君の目にはあまり入らないが、その人達がいないと学校が成り立たない、もしくは諸君も私たちも気持ちよく学校生活を送れない。日頃はあまり意識しなくても、彼らがいなくなるとそのありがたさに気づく、そんな人たちだ。
 庁務さんは、草刈り枝切りといった外の仕事から、水道、トイレ、電気関係設備の修理、掃除に至るまで、その仕事の範囲は学校の全てに及ぶ。特別な資格が必要なわけではないらしいが、どうしてこんないろいろな技術を身に付けているのだろう?と驚くほどだ。
 とにかく、諸君には、そんな方々によって自分の学校生活が支えられているということ、世の中ではそんな地味な仕事こそ大切だ、ということを知って欲しい。ぐうたらな学校生活を送っているわけにはいかないのである。
 

裏面:5月11日付け毎日新聞「オピニオン」欄、法政大学教授・椎名美智氏による「『させていただく』考」を貼り付け。大きな見出しは「バッシングに予防線」。
平居コメント:言葉は変化し続ける生き物である。しかし、新しい言葉や用法には違和感を覚えることが少なくない。私が耳障りだと感じる新しい言葉・用法のトップ3は、「ちがくて」「なので」、そしてこの「させていただく」だ。「違う」は動詞なのに、「ちがく」と形容詞の活用をしている(実際には「違う」は物事の状態を表すので、動詞であることが変。理屈を考えているわけではないのに、形容詞化していることはむしろ感動的!?)。「~なので」は正しいが、「なので、~」は間違い(説明が長くなるので省略)。そして、ベタベタとした「させていただく」の濫用には、むしろ内面の敬意の小ささと大げさな外面のずれに、嫌らしい「わざとらしさ」を感じてしまう。それでも、言葉の変化は必要性があって生まれてくるもの。この記事の分析を読んで諸君はどう思うか?