物事は自分の希望するように動くと考える

 朝日新聞の土曜版「be」に「ののちゃんのDO科学」というコーナーがある。科学に関する読者の質問に答えるというもので、とても平易、ほとんど全ての漢字にルビが付いているということもあって、私が受け持っている生徒に読ませるには手頃かなと思い、「学年だより」の裏面に、年に一度くらいは貼り付ける。
 先週のテーマは温暖化であった。見出しは「温室効果ガス、どう減らす?」というものであった。おぉ、私が人類の危機として最も深刻視しているものでありながら、久しく取り上げていないような気がしたので、よしいずれこの記事を、と思いながら読み始め、間もなく失速してその気が失せてしまった。私が問題と感じたのは次の部分である。全て、ののちゃんの質問に答える先生の言葉だ。

「快適さや便利さと温暖化対策は、必ずしも相反するものじゃない。例えば、家で使う電気を、二酸化炭素を出さない再生可能エネルギーで作ったものに替えたらどうだろう。」

再生可能エネルギーによる電力会社があって、切り替えられるよ。先生の回りには『電気代が安くなった』という人もいる。」

「走っているときに二酸化炭素を出さない電気自動車を勧めてみたら?」

 「快適さや便利さと温暖化対策が相反するものではない」というのは、以前、福田康夫という人が首相だった時に、ずいぶん力説していたのを鮮明に憶えている(在任時=2008年のサミットで、温暖化問題が重要な議題になったからだろう)。その後、今の政府に至るまで、ことごとく同様のことを言っている。最近よく耳にするのは、「温暖化対策がビジネスチャンスだ」という言い方だ。そのチャンスを生かすことに成功した場合、今よりも更に豊かな生活が可能になるというニュアンスを帯びている。
 「再生可能エネルギー」は、本当に再生可能エネルギーなのだろうか?我が家にも太陽光発電パネルというものが付いている。それはほとんど石油の力によって作られ、設置され、老朽化した時には処理されるものである。それらに費やされる化石エネルギーと、運転中に得られるエネルギーの差し引きがどれくらいなのか、私は知らない。風力発電の巨大な風車、特に海上風力発電機は、その建設だけを考えてみても、膨大な石油を費やして作られているだろう。また、例えばバイオマスでも、廃材がそれほど膨大、継続的に供給されるとは到底思えないから、パーム油や、パーム椰子殻の投入も行われ、パーム椰子を育てるために熱帯雨林を切り開いたことの環境負荷を考えると、本当にそれは再生可能エネルギーと言われるほど環境負荷が低いのだろうか?
 ガソリンエンジン車を2030年以降販売禁止にするという日本政府の方針は、最近大きな話題になった。もちろん、自家用車が禁止されるのではない。入れ替わるように言われるのは、当然、電気自動車の普及だ。しかし、その電気をどのようにして供給するかということは、信じがたいほど話題にならない。
 つまり、快適さ・便利さと温暖化対策は矛盾しない、再生可能エネルギーがある、電気なら二酸化炭素が出ない、などと言いながら、これらが本当に環境にいいかどうかはまったく情報が提供されていないのである。現象の末端部分だけが、さも素晴らしいことであるかのように語られ、その現象を支える背後については触れられないのだ。
 今はやりの「持続可能な開発目標(SDGs)」でも、事情は同様だ。素晴らしい具体的目標が17並んでいるが、それらの多くは、豊かさの上に成り立つとしか思えないものである。私などは、持続可能であるためには、持続不可能なもの(石油がその筆頭)の消費をゼロにするということが絶対に必要だと思うが、そのことに関するいかなる具体的施策も語られるのを見聞きしたことはない。「持続可能な開発目標」とは、「持続可能であって欲しい開発目標」に過ぎない。
 一昨日書いたのと同じことを書かなければならない。環境問題という怪物を前に、その解決の絶望的なまでに困難であることを察知した人間は、「見たいと欲する現実しか見ない」「物事は自分の希望するように動くと考える」という究極の自己防衛を図る。もちろん、この自己防衛は、「現実逃避」と言い換えることが可能だ。
 「快適さや便利さと温暖化対策が相反するものではない」と、本当は私だって信じたい。しかし、どうしてもそれを信じるための具体的なプランが探せないのだ。せめて、電気自動車の電気をどのように供給するかくらいはもっと明瞭にして欲しいと思うが、そんな基本的なことさえ、答えはおろか、悩んでいる気配さえ探せない。だが、太平洋戦争がそうであったように、おめでたくも「見たいと欲する現実しか見ない」「物事は自分の希望するように動くと考える」などしているうちに、もはや事態は完全に解決不可能な状況に陥ってしまう。それはあまりにも明白な「歴史の教訓」である。