エスカレーターと法規制(1)

 エスカレーターに乗る時は歩いてはならない。そんなことが言われ始めたのはいつからだっただろうか?理由は、立って乗っている老人や障害者にとって危険だから、である。
 それ以前は、立っている人は右、左側のスペースは歩く人のためのもの、となっていた。わたしはそれを合理的なルールだと思っていた。よほど幅の狭いエスカレーターでなければ、左側を人が歩いていても、右に立っている人が危険を感じる、あるいは実際危険な状態に陥るとは思えない。だが、それは「間違い」らしい。最近は「歩かない」というルールがかなり徹底されてきたと感じる。
 エスカレーターと階段が平行して存在する場所はかまわない。私は階段を上る。文明的エネルギーを消費するものをできるだけ使わないという思想でもあり、健康のためでもあるが、何より、じっと立って乗っているにはエスカレーターは遅すぎていらだたしい。困るのは、エスカレーターしかない場所である。仙台で言えば、仙石線ホームから跨線橋に上る所、首都圏で言えば、上野駅の新幹線ホームからの上り、などである。そんな私にとって、「エスカレーターでは歩かない」はかなり鬱陶しいルールだ。
 5月5日の毎日新聞「論点」欄で、このエスカレーター問題が取り上げられ、3人の識者が意見を表明していた(インタビュー記事)。私は、京都精華大学専任講師・白井聡氏の意見に共感するところが大きかった。もっとも、白井氏が問題としているのは「エスカレーターには立ち止まって乗る」ではなく。それを法によって規制することの是非である。なぜ氏がそのような観点で持論を述べているかというと、毎日新聞エスカレーター問題を取り上げたきっかけが、埼玉県がそれを義務化する条例を制定したことだからだ。
 白井氏は、「エスカレーターには立ち止まって乗る」を肯定した上で、次のように述べる。

「気になるのは、近年、以前ならばマナーや常識、その場のコミュニケーションで対処、解決できると思われてきた問題を、法律や条例、校則などで規制する動きが、かつてなく目立つように感じることだ。『法』が増えるのは、社会のたがが外れてきたことの表れであり、恥ずべき事態なのだが。」

 その上で氏は、大学の教室での出来事を示す。それは暗い教室に多くの学生が着席している時、「なぜ照明を付けないのか?」と尋ねたところ、学生は「高校まで、スイッチを勝手に触るなと言われていた」と答えたらしい。それについて氏は次のように語る。

「室内が暗くて不便でも、『許可されたこと以外はしない』という発想が優先するようだ。こうした発想を裏返すと、『禁止されたこと以外は何をしてもいい』となる。」

 この後、氏は世の中がなぜこのようになったのかについて、自説を述べる。それは「共同性の崩壊」だ。つまり、強い横の結びつきによって成り立っていた社会で、共同性が崩壊すると、「主体的で自由な選択」が求められるようになる。しかし、突然それには対応できないので、責任を回避して生きるために「お上」の指示のみに従い、指示のないことについては何をしてもいい、もしくは何もしない、と判断するのが合理的になった。
 なるほど、とは思うが、ちょっと違うな、とも思う。(続く)