教育学者は何をしているのか?

 先日、息子と話をしていたら、息子が気になることを言う。息子の通う中学校のクラスでは、給食の時にもマスクを取らない子が3~4人いるらしい。私は思わず、「えっ?マスクを取らずにどうやって食事をするのだ?」と聞いたら、息子は、マスクの下を少し押し開けて、そこから口にものを運ぶのだと言って、その様子を実演してくれた。私がその理由を尋ねると、息子は「恥ずかしいんじゃねぇ?」と答える。いやぁ、これはゆゆしき事態だぞ、と私はあわてた。私が以前から恐れていたことが、着々と現実化していると思われる。私が以前から恐れていたこととは、言うまでもなく、コロナ感染対策として行われていることが、人の人間観、社会観、世界観、総じて言えば、文化を改変してしまうことである(→直近の記事)。
 「恥」は文化である。後天的に身に付けるものだ。マスクが習慣化してしまうことで、顔を見せるのは恥ずかしいことだ、という新しい恥の文化が生まれる。「新しい」を前向きに考えるわけにはいかない。人が顔を隠すのは当たり前だというのは、ネットの中の匿名社会を彷彿とさせる。無責任で身勝手、もしくは、自己肯定感を喪失した病的な世界だ。そう言えば、どこかの保育園で、保母さんがマスクを外すと「こわい」と言って泣く園児がいる、という話も聞いたことがある。
 と言っているうちに、政府の感染症対策分科会が、保育園児のマスク着用を推奨する方針を打ち出したことが報道された。異論が出たため削除したが、当初は「2歳以上」と年齢も明示する方向だったという。「正気か?」である。コロナだと言えば、「コロナだ、コロナだ」とそのことしか考えられない、あまりにも狭窄した視野は恐ろしい。
 いやいや、分科会の先生方は、コロナウイルス感染症対策という目的のために駆り出されているわけだから、仕方ないのかも知れない。その極端を是正し、正常に機能する社会を作るのは政治家の仕事だ。
 いやいや、待てよ。よく考えたら、学校が突如の休校、各種行事の中止、部活動の自粛、時差登校、分散登校、オンライン授業、その他さまざまな活動の制約と、ボロボロになるほど影響を受けている中で、そのことについて教育学者はいったい何をしているのだろう?仮に、現在のコロナ対策はやむを得ない、学校活動の制限はこの程度なら子どもの発達に悪影響はない、と考えていたとしても、まさか活動制限を無制限に肯定するということはないだろうから、では、どの程度の制限までは許され、何をすれば子どもの発育にどのような悪影響が出るのか、教育学者はもっと積極的に発言すべきではないだろうか?
 私が見たところ、マスメディアのインタビューに答えるなどして、一部の教育学者が個人的見解を述べることはあっても、学会として提言をまとめるとか、問題を指摘するとかいった行動に及んだ話は聞いたことがない。こんな時に活躍しなければ、教育学者の存在価値が疑われるというものだ。
 政府も、医学系の人間の声にばかり耳を傾けるのではなく、教育学者や心理学者、社会学者などに意見を求め、それによって対策のさじ加減を調節していく必要があるのではないだろうか。ただ、政治家に見識が期待できないことは既に明白なのだから、それよりは、やはり教育学者の側から、積極的にアプローチすべきだ。
 私の勤務先でも、いつになく心を病む生徒が増えている。これが偶然なのかどうか?私は無節操なコロナ対策、急激なデジタル化が原因として非常に重要だと思っている。正しいかどうかは知らん。いずれにしても、この現実を前に、教育学者達はあまりにも不甲斐ない。