知足安分とノーマスク

 一昨日は「再任用教諭」になって最初の給料日であった。分かっていたことではあるが、やっぱり半額になったな、という感じ。額面はたぶん7割近いはずだが、昨年の収入に基づいた率で税金が引かれるし、扶養手当も付かなくなったりしたので、半額を少々下回るくらいだ。変だな。国は「同一労働同一賃金」を言い、クラス担任をしていることもあって、私の仕事量は昨年の倍近いのに・・・。ま、いい。私の今年のテーマは「知足安分(足ることを知り分に安んずる=余計な欲を持たず、自分の境遇に満足する)」なのである。
 ところで、私は先月京都に行った時からノーマスクで生活している。勤務先をはじめとして、ほとんどの場所でマスクは「個人の判断」になった。「個人の判断」と言いつつ、日本独特の忖度文化、同調圧力によって、実際にはマスクを外せない、ということになったら嫌だなぁ、と思ったので、マスクを付けるかどうかは「個人の判断」に委ねられているのだ、ということを確かめ、アピールするためにも、私は真っ先にノーマスク生活を始めたのである。
 私は、非常に早い時期から、マスクはよくないと言い続けている(→2020年6月の河北新報掲載拙文)。コミュニケーションにも差し障りがあるし、子供の発達にも教育にも悪影響があるだろうといった理由からだ。コロナの感染者が何人というのは数字として可視化されるが、それらの悪影響は数値化されず、具体的に把握しにくい。だから軽視されるだけの話である。人間は数字に非常に弱い。コロナ程度の重症化率、致死率の感染症であれば、マスクによる悪影響の方がはるかに深刻だと思う。
 厚労省が出しているコロナに関するデータによれば、昨年夏までのものしか見当たらないのだが、10代では重症化率0.01%、死亡率0%である。ただし、10歳未満や20代の重症化率は0.0%なので、小数点以下第3位で四捨五入したら0.01%になってしまった、というだけであろう。おそらく、実際の重症化率は0.005%ほどということだ。
 私たち人間は、おそらく四六時中いろいろなウイルスや病原菌に感染しながら生活している。感染は決して珍しいことでも悪いことでもない。悪いのは重症化だ。ほとんど重症者が出ない状態で、感染者数を発表し、それがさも大変なことであるかのように報道するのは止めてほしいと思う。
 外国人観光客がうじゃうじゃいた京都では、マスクを付けていない人もそれなりに見かけたが、宮城では、それから3週間あまり経ったにもかかわらず、マスクをしていない人を見かけることはまれだ。驚いたことに、職員室でも教室でも、私に同調する人はほとんど現れない。
 一方、私がマスクをしていないのを見て、文句を言う人、顔をしかめる人もいない。管理職から「平居先生はどうしてマスクを付けないんですか?」と尋ねられたこともない(こんな質問されたら、実質的に「付けろ」という命令に聞こえるだろう)。幸い、マスクをしていないことによって、不愉快な目に遭ったことは一度もないと言ってよいのである。つまり、それが「個人の判断」である以上、マスクをしていない人を批判することはできないという認識は共有されていると見える。これは当たり前だけど立派だ。
 先週末、私のクラスから早退者や欠席者が相次いだ。コロナやインフルエンザと確認された生徒はいない。それもあって、担任がマスクをしていないからだ、などという話にはなっていないようだが、私の周囲からコロナやインフルエンザが発生したら、私は文句を言われるのだろうか?そんな不安のようなものが、少し頭をよぎった。
 いやいや、文句を言われる筋合いはない。マスクを付けるかどうかが「個人の判断」ということは、マスクを付けていないことで、感染が発生した可能性があったとしても、仕方がないと思ってもらわなければ困る。「個人の判断」でノーマスクはかまわないが、感染者を出してはならない、感染に絶対に関与しないという保証がなければマスクを付けろ、というのは実質的な「個人の判断」の否定であり、理不尽である。
 5月8日をもってコロナが5類感染症になれば、あるいは、気温が上がって夏日が続くようになれば、人はマスクを外すのだろうか?とりあえず、早く生徒がマスクを外してくれないと、クラスの生徒の顔も憶えられないよ・・・。