戦争倫理学

 日曜日の毎日新聞「語る」欄に、東京工大教授・真嶋俊造氏への大きなインタビュー記事が載った。「戦争倫理学」の専門家らしい。記事によれば、戦争倫理学とは、戦争がなぜ悪なのかを倫理学的視点で考える学問である。へぇ!驚いた。戦争がなぜ悪かは、倫理学の専門家がいちいち考えなくてはならないほどのことなのか?という驚きである。
 真嶋氏によれば、「戦争の正義」を判断する基準は次の六つである。
①正当な理由、②正当な機関(国家や国際機構)、③正しい意図、④最終手段(他の非軍事的措置が尽くされた)、⑤成功への合理的な見込み、⑥結果の比例性(戦争によってもたらされる善と悪が釣り合う)
 これら全てが満たされればその戦争は正しく、どれか一つでも満たされなければ不正となる。
 私は昔から、正しい戦争があるとすれば、受けて立った時だけだろうと思っていた。つまり、攻撃を仕掛けた側には絶対に正義はない。ただし、受けて立った場合には正義となり得る。これは、戦争を全体として見るのではなく、当事者の視点で見る考え方だ。
 一方、真嶋氏によれば、仕掛けた側についても「正義」はあることになるのだが、認められるべき「正当な理由」「正しい意図」が何か、具体的な例がなければイメージできない。少なくとも、私には思い浮かばない。例えば、某国で重大な人権侵害が行われていたとして、それを解決させるために戦争という手段に訴えることは、人権が世界における普遍的な価値観になりきっていない以上、一部の人間にとってしか正義ではない。また、ロシアはウクライナをすぐに攻略できると思って戦争を始めた。第1次世界大戦だって、短期決戦が想定されていた。戦争における「成功への合理的な見込み」ほどあてにならないものはない。とあれこれ考えてみれば、6条件はあまりにも曖昧で、基準として使えそうな気がまったくしない。したがって、6条件を満たせば戦争を始めることも許される、というのは机上の空論である。
 最近私がよく思うのは、戦争は環境との関係で絶対悪だ、ということである。気候変動の深刻さは、ほとんど絶望的と言ってもよいほどであって、この期に及んでそれが分からないというのは、地球上で人として生きる資格がない、とまで思うほどだ。正に「戦争なんかしている場合ではない」のである。
 戦争ほど大きな資源消費=環境破壊は存在しない。命がかかっている場で、資源消費のことなんか問題にしている余裕はないからである。戦闘機、戦車、戦艦、いずれも燃費の悪いものばかりであるが、それが街を破壊し、国土を荒廃させると、やがては復旧させなければならないわけだから、二重の資源消費が行われることになる。もはや、地球にはそれを許容するだけの余裕がない。これは、戦争倫理学の視点で考えれば、「結果の比例性」において、あまりにも悪が大きすぎて、釣り合う善が存在しないということになるのだろう。
 地球温暖化に悪影響を及ぼすものを絶対悪と考えてしまえば、条件⑥が成り立つことはなく、どれか一つでも満たされなければ不正なわけだから、もはや六つの基準は不要だ、ということになる。倫理学者は、戦争の環境への影響というのは考えないものなのかな?「正しい」や「合理的な見込み」の曖昧さも含めて、どうも愚かな議論に見える。
 地球温暖化というのは、人類がほとんど絶滅に近いダメージを受ける大変な問題になるはずだ(私の予想は日に日に悲観的)。しかし、世の中の人々の認識はそうではない。だからこそ、いまだに浪費生活の改善も、問題の克服を目指す社会構造の変革も、ごまかしばかりで、実質的にはほとんど手つかずなのであろう。
 しかし、私の予想通り(→参考記事「加速は自然の理法か?」)、IPCCの指摘を上回るスピードで地球環境が悪化すれば、戦争の勝者であるか敗者であるかに関係なく、生き延びることは出来ない。全ての原点に、少しでも多くの人が生き残れるようにすることを置けば、環境問題を無視することは絶対に出来ず、戦争をすることもできない。物差しとしては非常に分かりやすいではないか。
 倫理学者だかなんだか知らないけれど、あまり小難しい理屈をこね回して、もっともらしいことを言わないで欲しいなぁ・・・あ、その言葉はもしかするとブーメラン?