宗教法人よりも政治家の問題

 旧統一教会(面倒なので、以下「旧」省略)についての動きが慌ただしい。支持率の低下に危機感を感じてか、首相は、ついに宗教法人法に基づく調査権を行使し、実態の解明に乗り出すと言い始めた。
 おいおい待てよ、と私なんかは思う。世の中の人々(特に政府)が何をしている時にでも、考え方の根っこが違うんじゃないの?優先順位が違うんじゃないの?という違和感を常に感じる私は、今回の統一教会調査についても同様だ。
 宗教団体、もしくは宗教に手を付けることは難しい。個人の内心に関わるからである。
 そもそも、宗教は理屈が通用しない。それが宗教のよい点でもある。「神は存在する。神とはかくかくしかじかの存在である」という教義に対し、それが真であるか儀であるか、理詰めで証明することはできない。ある人にとっては荒唐無稽であるが、他のある人にとってはそれで、もしくはそれだからこそ救われるということが起こるのである。
 問題となっている献金だって、個人の財産をどのように使うかという問題だから、基本的に第三者は介入すべきではない。物理的な脅迫による献金なら、宗教法人法を持ち出すまでもなく、刑法で対処できるわけだし、心理的な追い込みなら、それを悪と判断するのは、主観に左右されすぎて危険である。
 大人が自分の責任において、信じ、寄付するのである。失敗も含めて本人の問題とする方がいい。宗教法人と政治権力を比べた場合、後者の方が圧倒的に力が大きく、したがって、使い方を間違った時には悪もまた大きいのである。
 むしろ、統一教会の問題で、とても大切なのは、なぜ改名を認めたかという政府の問題である。
 元文部科学事務次官前川喜平氏は、「統一教会から最初に改名申請の相談があった時、担当課である宗務課の課長をしていたが、訴訟の対象にもなっている宗教団体について、実態に変化がないのに名前だけ変えるわけにはいかない」として、申請しないように回答したと言っている。そして、その後、文部科学審議官だった時に、宗務課長から改名を承認することになったと報告が来た時、「認めるべきでない」としたが、結局、改名は認められた。当時の自分の立場からして、「改名を許可できたのは文部事務次官か大臣しかいない」とも述べている。これらの発言の真偽も含めて、なぜ改名が認められたかを解明することは、政治と宗教団体との関係を考える上で非常に大切だ。
 調査権を使って統一教会の内部に踏み込むことは、そのような政治的問題から目をそらさせ、統一教会だけを悪者にして、自分たちの責任を回避しようという魂胆が見え見えである。「統一教会けしからん」という国民に蔓延しつつある意識に便乗し、責任回避のみならず、自分たちを正義の味方に見せようというものである。
 統一教会に問題がなかったとは言わないが、それを利用し、今も利用しようとしている政治家も悪質である。何が何でも解明すべきは政治家の側で、その焦点となるのが改名問題だ。有権者は政治家にだまされてはならない。統一教会の内部問題はその後だ。


(補足)実は、私は、統一教会の法人格を剥奪する(=解散命令を出す)なら、「宗教法人」という制度そのものを全廃した方がいいと思っている。信仰はあくまでも心によって支えられるべきであって、そのために制度的な優遇策を講じる必要は必ずしもない。「宗教法人」の廃止が信教の自由に反するとも思っていない。