一柳慧「ピアノ・メディア」!!

 だいたい1週間遅れで、録画してあった「クラシック音楽館」を見ている。先週の日曜日は、ブロムシュテッドの最終回だった。シューベルトで一気に若返ったブロムシュテッドは、3番目のプログラムで、ますます元気になっている感じがした。この日のプログラムは、グリーグのピアノ協奏曲(独奏:オリ・ムストネン)とニルセンの交響曲第3番「広がり」。スウェーデン人であるブロムシュテッドとしては、広い意味で「お国もの」である。
 ムストネンは、指揮も作曲もよくするという才能豊かな人物らしいが、ピアニストとしてはものすごく癖があり、腕を大げさに振りながら、はじくようにピアノを弾く。ピアノの響き自体も変。何の都合なのか、たびたびプリペアード・ピアノのような響きになる。北欧的な雰囲気というか、グリーグらしさというものがあまり感じられない演奏で、私は終始違和感を抱きながら聴いた。ニルセンは意外によかった。「意外に」というのは、私がまだニルセンの価値をよく分かっていないからである。それでも、退屈せずにその北欧的な響きとメロディーを楽しめた、ということだ。
 しかしながら、実は今回、ブロムシュテッドはどうでもいいのである。いや、新聞の番組表を見て、N響定期の残り時間で、10月7日に亡くなった一柳慧(いちやなぎ とし 1933~2022年)の特集が組まれており、「ピアノ・メディア」という曲名を目にした瞬間、ブロムシュテッドが一気に二の次になってしまったのである。
 私も多くの人と同様、現代音楽は苦手である。一柳慧も名前は知っていたが、何しろ「前衛音楽の旗手」と言われた人である。現代音楽の中でも特に奇を衒った難解な音楽を作る人、という思い込みもあって、あまり積極的に聴こうと思うことはなく、録音を入手することもなかった。
 一方、少し気になっていた作曲家でもあった。まずは、どうでもいいような思い出から。
 1983年の10月17日、東京フィルの演奏会に行った時、元々打楽器奏者であった指揮者の岩城宏之が、自らマリンバの独奏を担当して、一柳の「パガニーニ・パーソナル」という作品を演奏した。これは比較的聴きやすい曲で、面白かったのだが、演奏が終わった後、拍手の中で岩城が人を紹介するように客席へ向かって手を差し伸べた時、確か、私の斜め前に座っていた人が立ち上がった。作曲者本人である。周囲を見回しながらお辞儀をする一柳を正に目の前で見たことで、強く印象に残った演奏会であった。
 さて、2017年6~7月、朝日新聞の「語る-人生の贈りもの」という欄で、一柳が取り上げられた。15回の連載である。その第11回に「ピアノ・メディア」(1972年作曲)が登場する。まず、そこに書かれた記者の解説。

「70年代、疾走する右手と左手の指の動きが少しずつずれてゆく『ピアノ・メディア』『タイム・シークエンス』など、演奏という行為の可能性を極限まで突き詰めた難曲で世界を驚かせる。」

次に、このことについての本人の述懐。

「弾く人の都合は考えません。『易しく書いて』と言われても、すみません、気に掛けません。人間の力でどこまでの芸術表現ができるのか、妥協なく探ることに私は人生を懸けていますから。」

 う~~ん、これはどうしても聴いてみたくなるではないか。それでも、私は録音を入手しなかったのである。一つには、廉価版がなく、高価だったからである。おそらく一度聴いてお蔵入りする可能性が高い、そのために3000円出す気にならなかった、ということだ。そしてもう一つには、音だけではダメで、どれほどアクロバチックなピアノの弾き方をするのか、映像を見なければ分からないだろう、と思ったからである。映像は売られていないようだった。
 それが、突然、テレビで見られるというのだ。更に、ピアノ協奏曲第2番「冬の肖像」も。実は、この部分だけは、録画ではなく、先週の日曜日の放映中に見てしまっていた。それほど気になっていた、ということである。
 だいたい、物事は期待が大きいとがっかりするものだが、この映像に関してはまったくそんなことはなかった。「ピアノ・メディア」を弾いているのは中野翔太という知らないピアニスト。わずか1ヶ月前、NHKのスタジオでの録画である。本当にびっくり仰天。右手が電子音風の慌ただしい音型を延々と繰り返していく中で、左手が様々に変化していく。「右手と左手の指の動きが少しずつずれてゆく」のかどうかはよく分からなかったが、見るからにアクロバチックで複雑な動きもあって、異様に引きつけられていく音楽だ。この手の音楽に一切興味のない娘に見せてみたら、娘もものすごい顔をして見入っていた。中野翔太というピアニストが悪かったわけではないが、音が非常にシャープで、左右の手を極限まで分離させられるグレン・グールドの演奏で聴けば、更にすごかっただろうな、とも思った。木村かをり独奏、外山雄三指揮のN響(1988年)によるピアノ協奏曲も秀逸。
 こんな曲を、口をあんぐり開けながら聴いていると、一柳慧もしくは現代音楽への拒否感というのがただの偏見、思い込みに思われてくる。まとめて一柳作品を聴いてみたいな、とは思ったものの、やっぱり録音が高価に過ぎる。演奏にエネルギーがたくさん必要な上、売れないのだから仕方がないとは分かるのだけれど・・・。

 

(注)テレビの字幕によれば、一柳は「ピアノ・メディア」楽譜の「まえがき」で、この作品を次のように解説しているらしい。

「テクノロジーの発展によって音楽における電子メディアの比重が拡大してきている今日、現代の人間にとって既存の楽器を対象にした演奏とはどのようなものなのかということを問うたのがこの作品である。」