土葬にも人口の壁

 今日は朝から、石巻高校ワンダーフォーゲル部に付き添って、石巻市北部にある上品山(じょうぼんさん=466m)に行っていた。水沼という集落に車を置き、水沼山(みずぬまやま=347m)を経て、3時間あまりで上品山に着き、昼食の後、今度は水沼山の頂上を経由せず、巻き道を通って2時間あまりで車に戻った。昨日に比べると少し風はあったし、霞がかかっていて遠景はぼやけていたが、それでもいい天気で、新緑のみならず、咲きかけのヤマツツジを愛でながらの快適な里山歩きになった。今年入った1人の部員もずいぶん楽しかったらしい。よかった、よかった。
 ところで、25日(火)、宮城県内のイスラム教徒たちが作る団体が、石巻市に対して、土葬が可能な霊園の整備を求める陳情書を提出したことがニュースになっていた。
 報道によれば、イスラム教では人が死ぬと土葬することになっているが、東北地方には土葬を受け入れる墓地が存在しないため、現在は、埼玉県などの土葬が可能な県に遺体を移送して埋葬している。しかし、費用や手続きの関係で、なかなか容易なことではない。そこで、宮城県が多文化共生社会の推進を掲げていることや、水産業などの分野で働く外国人技能実習生が多く暮らしていることから、まずは石巻市に要求することにしたのだという。
 私は、相当前から土葬推進派だ。いや、火葬否定派と言った方がいい。火葬でなければ、土葬でも水葬(海にポイ)でもいいのである。人の世がある限り、死者は無限に出続けるのに、石油は有限で、しかも温暖化問題が深刻なわけだから、火葬なんか許されるわけがない、というまったく宗教的でも感情的でもない、極めて合理的な理由によっている。火葬はどう考えても馬鹿げている。木を燃やして火葬にするならよいが、それほどの木材が供給できるはずもない。他の生き物の命を奪いながら生きている身として、死んだ後くらい他の生き物の命を支えるために貢献したい、というのも軽視できない理由だ。火葬を止め、全ての死者を土葬か水葬にしてほしい。いや、そうすべきである。(→過去の参考記事
 だが、果たして土葬は可能だろうか?と考えてみる。今の日本では、毎日だいたい3800人くらいの人が死ぬ。一人の人を土葬するためには、どんなに少なく見積もっても1坪、すなわち3.3㎡の土地が必要だ。それを3800倍すると、12,540㎡=1.25㏊の土地が必要になる。それが365日で458㏊だ。一度土葬に使った土地で、次に土葬ができるようになるまでどれくらいの時間がかかるのか、その場合、前の遺体の骨は掘り出してどこか別の場所に移すのか、などは知らない。仮に、次の土葬まで3年は使えないとすれば、1,400㏊近くが必要となる。我が家の下の復興祈念公園の35倍以上の面積だ。しかもこれは、あくまで1人の土葬が1坪でできれば、の話である。おそらくそれは難しい。だとすれば、これは国土にとってかなり大きな負担であろう。
 やはり、日本の人口は多すぎる、ということなのである。先日も私は、少子化との関係で日本に人口は多すぎるということについて書いたのだが、食糧確保や環境問題を離れて、今度は土葬問題を考えてみても、やはり人口が多すぎるという問題にぶち当たる。
 少子化が困った問題だ、人口を増やそうというのは、あくまでも今まで通り、ほとんど無制限に石油や食糧が輸入できるという前提に立った話であり、その前提がなければ、「遺体は火葬」という「常識」も成り立たない。そう、成り立たないのである。
 一方で土地の制約があるとすれば、まずは、イスラム教徒のような宗教上の事情のある人たち、そして私のような希望者、このあたりからぼちぼちと土葬を始めるとよい。いずれにせよ、石油を使っての「火葬」というのは根本からおかしいのである。