おかしいのは私?

 6月28日に、「国際卓越研究大学」に関し、国の有識者会議が、その候補を東大、京大、東北大の3校に絞った、ということが新聞報道された。「国際卓越研究大学」(以下、卓越大)とは、世界最高の研究水準を目指して、国が一部の大学に対し、最長で向こう25年間、数百億円規模の助成をする制度である。日本の研究がじり貧であることに危機感を持った政府が、一発大逆転を狙って始めた制度で、最初の応募に対しては10校が申請を出した。それが、上の3校にまで絞られた、ということである。
 話を聞いた時からうさんくさい制度だ、と思った。私がうさんくさいと思った理由は三つある。一つ目に、金を出せば当然国は口も出すはずで、大学に対する国の管理統制は強まるだろうと思ったからである。しかも、金額は大きければ大きいほど、介入の度合いも大きくなるだろう。二つ目に、学問というのは、どんな学問がいつどんな形で花開くか予想が付かないのだから、裾野を広げることこそが大切なのに、卓越大の認定はそれと逆行することだからである。そして三つ目は、このような制度を作ってしまうと、申請がいくら各大学の自由意志によるとは言っても、それはタテマエであって、10~20の歴史ある総合大学には実質的には申請せざるを得ない状況が生まれてしまうだろう、と思うからだ。そしてそれは、間違いなく、大学の多忙を加速させるだろうし、本末転倒を生むだろう。本末転倒とは、豊かな研究をするために申請するはずが、指定を受けるためにはどうしたらよいかという発想に陥ることである。
 例えば、高校にも、SSH(スーパーサイエンスハイスクール)を始めとして、様々な研究指定校制度がある。特定の分野、内容に関して、特別な努力をすると約束し認められると、県から教員の加配や予算措置が行われるというものだ。該当しそうな学校は、申請しないと「(教育全般について)やる気がない」と見られかねないし、そのようなお上のお墨付きは学校宣伝上のメリットも大きい(=申請しないとデメリットが大きい)ので申請する。
 認められると、決められた期限の中で目に見える成果を出さなければならなくなる。中間報告も必要だし、お金の使い方についての報告も必要だ。実際には、教育の成果など容易に出るものではなく、取り組みとの因果関係が分かる状態で形になるという保証もない。しかし、研究指定を受けてしまえば、目に見える成果を出すことは「義務」となる。いや、「義務」となるのは、成果が出たように見せかけることかも知れない。卓越大の制度だって、同様のことが起こるだろう。いや、それをはるかに壮大、複雑にしたのが卓越大という制度に違いない。
 さて、こんなことをもやもや思っていたところ、5月10日に河北新報「持論時論」欄に載った「東北大の卓越大計画 学問探究の場壊す恐れ」という記事を読んで、そのうさんくささは確信に変わった。投稿記事を書いているのは、東北大職員組合退職者の会会長・横田有史氏(79歳)である。聞いたことのある名前だなと思って、ネットで検索してみると、共産党の元県議だ。東北大でどのような職にあったかということは分からない。
 氏は、3月8日河北新報に載ったという東北大の卓越大認定を目指す計画案を批判している。その計画案とは、例えば・・・

「世界トップレベルの研究者で作る『研究戦略ボード(委員会)』を設置し、国際的な視点で研究戦略を立案、評価する」
「総長の選任・解任など重要事項を決める合議制の法人総合戦略会議(仮称)を創設」し「執行部は総長と教学担当役員に、事務財政と包括的国際化の新担当役員を加えた4役体制とし、権限と役割を明確化する。」
「学部長など部局長の選任方法は、部局ごとの選任から総長による指名制に変更。各部局の活動を執行部が評価し、予算を戦略的に配分する。」

一部の人による研究の方向性決定や、人事に関するトップダウンの強化は、私がうさんくさいとした理由の一つ目、二つ目と重なり合う。横田氏は、総長による学部長の選任については、「全く異なる高度な専門分野の科学・研究・教育や部局運営などを評価できる『スーパー総長』など存在するのでしょうか」との疑念を呈してもいる。
 この記事に刺激を受けて、ネットであれこれ情報を探していると、RKB毎日放送という九州のローカルラジオ局による、ちくま新書『ルポ 大学崩壊』の著者・田中圭太郎氏へのインタビュー記事「大学が壊れてしまった」が目にとまった。その中で田中氏は、卓越大に触れ、「最高意思決定機関を新たに作って、その半分以上が学外の人。例えば、東大、京大、九州大学がもし国際卓越研究大学になると、もう大学の全てのことが学外の人や政府に握られる」と語っている。これが本当だとすれば、上の東北大の場合、「法人総合戦略会議」に半分以上学外の人が入るということになる。
 卓越大指定に応募し、こんな計画案を示した東北大は情けないが、責められない部分もある。既に書いた通り、申請しないと消極姿勢を批判されることもあるだろうし、率先して応募すべき「旧帝大」が国策に応じなかったということで、ことさらに不利な扱い(ゼロではなくマイナス)を受けるようになる可能性だってあるからである。
 なぜ人は、このように物事を悪くしようとばかりするのであろうか?しかも、そんなプランを作っているのは、高学歴の国会議員や、キャリア官僚、学識経験者である。すると間違っているのは、一介の高校教員のくせに、偉そうに「学問というのは云々」と語る私の側だと考えるべきなのではないか?ふと、そんな気が兆して、私の意識は混乱する。