歴史に埋もれた「声」

 西井麻里奈『広島 復興の戦後史 廃墟からの「声」と都市』(2020年、人文書院)という本を友人から借りて読んだ。今時としては珍しいくらい小さな活字で360頁あまり、文字がびっしりと並んでいる。数えてみれば、46字×21行、1頁に最大で966字入る。時折挿入されている図表も非常に小さい。出版経費の制約によって頁を増やせないという事情もあったのかも知れないが、よほど目一杯文字を詰め込みたいと思うだけの内容と作者の思いがあったことが想像できる。
 読んでみると、内容にも書き方にもいろいろと問題を感じる。
 まず、何と言っても、広島をテーマとしたことの必然性がよく分からない。当時、日本では100以上の都市が米軍の空爆を受けて焼け野原になった。そこからの都市復興という問題は、それらどの町でもあったことだろう。広島はどのような点で特別なのか?新しい都市計画の中に平和祈念公園の設が組み込まれたことは、広島の特殊性ではあるかも知れない。しかし、それとて同様のことは多くの町であっただろう。本書では、残留放射能や、放射線障害(いわゆる原爆病)などのことについては触れられない。広島の特殊性と普遍性、その切り分けをもう少し明確にしてほしかった。
 おそらく、作者も、本書のタイトルを『広島』としつつ、それがどうしても広島でなけれなならないという書き方はしていない。「広島」は平和都市建設の象徴的な意味を持つ地名として語られるだけである。ただ、『広島』とタイトルが付けられれば、読者の側では広島固有の事情を期待してしまう。営業上の問題がなければ、「広島」を外すか、主題と副題を逆にすればよかった。
 本書で用いられる資料としては、庶民による陳情がとても重要な役割を果たしている。それは大いに評価すべき点であるのだが、銀行の振込用紙の裏面に書かれたものすらあったという陳情書が、果たして現在の陳情と同じ性質のものなのかというのは確認してほしかった。このような陳情書がまとめて保存されているのが、果たして広島だけなのかどうかも気になるところだ。また、現在との関係で言えば、今でも道路の付け替えなど、都市計画に伴う立ち退きというのは珍しくない。だとすれば、現在の立ち退きと、著者が問題にしている立ち退きの異同もはっきりさせてほしかった。それをすることで、時代状況、敗戦復興というものの性質がより一層はっきりしたはずだ。
 また、例えば第1章第2節は「異議申し立ての声 ― 陳情書の考察・七つの視点から」というタイトルで、その節の結びにも「本章では(中略)七つの項目に分けて考察を進めてきた」と書かれるのであるが、「章」なのか「節」なのか、「視点」と「項目」の違いもさることながら、その7つが何かを読み取ることはとても難しい。私は数回読み直して、この7つなのかな、という原案を心の中に持ちはしたものの、いまだにそれが正しいとは自信を持てずにいる。陳情書の内容を点検していく上で重要な視点であるなら、その7つが何かを明示してから議論に移るだろうし、7つが何か分からなくても読むのに困らないなら、「七つの視点(項目)」などという余計なことを書かなければいいのだ。このような書き方の問題が、いくつかの箇所に見られるのは残念だ。
 それでも、私はこの本を2回、けっこう熱心に読み直した。分かりにくかったからではない。前述のような問題点を上回る魅力があったからである。
 従来、広島の戦後復興史を語る時、政策的な面から語られることが多かったのに対して、この本は陳情という原史料とインタビューとによって、新しい事業の影響を受けた居住者=利害関係者の視点で問い直す。
 従来の復興史が、政策サイドから語られていたのは当然だ。それが、都市計画事業という政治のあり方の是非を考え、政治をよりよいものにしていく上で大切だからである。しかし、誰も住んでいない荒野に新しい都市を作るならともかく、いくら原爆によって焼け野原になったとは言え、元々その土地には権利者がおり、被爆直後からバラックを建てて住み着いていた人々がいたのである。彼らの事情や心情を一切考慮することのない町作りというのはあり得ない。著者が見つめるのはそんな人々の姿だ。著者が先行研究に関する解説で確認している通り、この本の重要なポイントである。
 著者が用いた史料「陳情」とは、新しい都市計画に従って立ち退きを求められた居住者が、移転期限の猶予や、換地(代替地)についての配慮を求めたりするための文書である。移転のためのお金がない、換地の条件が悪すぎる、病人や妊婦がいるなどの家庭事情によって引っ越しができないといったことは、おそらく当人たちにとっては非常に深刻なものである。そこには、なんとかして行政側の譲歩を引き出そうという願いの下、労をねぎらい、新しい都市計画への賛意を示してご機嫌を取りつつ、戦時中の犠牲や貢献度の大きさ、家庭事情などによって同情を誘い、誠意を示して言い分を認めてもらおうという涙ぐましい努力が表れている。他人と自分を比較して、どうしてうちばっかり?と難じたり、有力者との知遇に触れたり、他人をおとしめて自分が優位に立とうとする姿も、実に人間的だ。どうしても陳情せずにはいられないという切羽詰まった衝動は、文面が素朴で拙いからこそ、より一層読む人の心を大きく動かす。そしてそんな声の中に、組織的な大きな力の下に、ささやかな平穏を蹂躙される庶民がいる、という普遍的な状況が見て取れるような気がする。著者は、それぞれの陳情に対して当局がどのように応じたかについても触れるが、そこに見られる当局の苦悩や人間的な反応も興味深い。
 インタビューは扱いが難しい。なぜなら、インタビューとそこでの話題に時差があれば、その間の生活体験や考え方の変化が反映されてしまい、本当に正確に過去を語っているかどうか確かめることが難しいからである。
 その点、著者によるインタビューの扱いは的確だ。特に、インタビューが重要な役割を果たす第5章では、「原爆スラム」の調査をした元広島大生に焦点を当て、インタビューした当時に至るまでの過去ではなく、インタビューの背景やインタビュー当時の状況と思いを描き、その意味を考えていくからである。
 これらの結果として、この本は、従来の史書とはかなり趣の違ったものになっている。時代は社会の多数意見や為政者の思いによって動く部分が大きいが、それによって影響を受けた庶民の思いもまた大切なのであって、立派な巨大都市となった現在の広島を、外見だけ見ながら喜んでいるのは片手落ちである。大きな歴史の流れの中に埋もれていった弱者の思いを見る視点は大切であろう。歴史は文学に限りなく接近する。