ミランコビッチの本

 東北新幹線に乗ると、各座席に『トランヴェール』という広報誌が置いてある。たいていは目を通す。年度末に息子と関西に行った時、往路は3月号で、北陸新幹線敦賀延伸に関する特集だった。中に、「水月湖が語る過去、現在、未来の地球」と題して、福井県若狭町の「福井年縞博物館」を取り上げた記事があった。特に面白かったのは、その末尾にコラム的に枠で囲った「ミランコビッチサイクルはめぐる」という部分である。
 博物館の2階に、ミランコビッチの著書『地球における太陽放射のリズムとその氷河期問題への応用』という本が展示してあるらしい。それに関する記事だ。

 ミルーティン・ミランコビッチという人が、地球が受ける太陽放射量の変化によって、氷期間氷期が一定のリズムで起こることを明らかにしたので、そのリズムをミランコビッチサイクルと言う、というのは私でも知っている、いわば科学の常識である。
 しかし、不勉強にして、ミランコビッチがどこの国の人であるかということも、ミランコビッチサイクルが提唱されたのがいつかということも、まして、それがどのようにして発表されたかということもぜんぜん知らなかった。
 記事によれば、ミランコビッチはセルビアの人で、ミランコビッチサイクルを提唱したのは1939年だそうである。ミランコビッチはその理論を2年かけて執筆し、600ページの大著で世に問おうとした。本は1941年4月に印刷が始まるが、その直後にベオグラードはドイツの空爆を受ける。ミランコビッチはかろうじて避難したものの、印刷所が被爆した。ミランコビッチは、がれきの山の中から、運良く印刷が終わっていた紙の束を発見した。
 ドイツ軍がベオグラードを制圧すると、ミランコビッチの所に、ドイツの地質学者ヴォルフガング・ゾルゲルの弟子だという将校が訪ねて来た。ゾルゲルがミランコビッチの消息を確かめるために派遣した将校だったらしい。ミランコビッチは、その将校に焼け残った紙の束を託した。その結果、ミランコビッチの本は戦時中のドイツで出版された。
 なにしろ、その後ドイツは厳しい戦火にさらされ、多くの町が廃墟となったので、出版された本も多くが失われてしまった。現存する『地球における太陽放射のリズムとその氷河期問題への応用』は8冊であると言われていた。
 ところが、立命館大学古気候学研究センター長の中川毅氏が、ベオグラードの古本屋で、存在が知られていなかった、つまり9冊目に当たる『地球における太陽放射のリズムとその氷河期問題への応用』を見つけた。
 その本の価値を知る中川氏は、本を見つけて購入した後、その本が本物であるとどうしても信じられず、本からこぼれ落ちた紙片を年代測定にかけたという(そこまでする?!!)。驚いたことに、1950年代以降、人類が大気圏で核実験を何度も行った結果、1950年代以降とそれ以前では、紙に含まれる放射性物質の量がまったく違うのだそうだ。そして、測定の結果・・・中川氏が見つけた本は1940年代に作られたもの、つまりは本物であることが確認された。福井年縞博物館に展示されているのはその本である。なんという奇跡!!
 本は出版され、かろうじて9冊が生残ったものの、その本の内容が認められ、評価されるかどうかは別問題である。ミランコビッチサイクルに関する理論の正しさが証明され、世界が称賛するようになったのは1976年。つまり、彼が理論を提唱してから37年、死んでから18年後のことであった。
 私は今まで、本の出版に関するいきさつとして最もドラマチックで感動的なのは、大修館『大漢和辞典』だと思っていた(第1巻冒頭、著者・諸橋轍次による「序」、索引巻の末尾、大修館社長・鈴木一平による「出版後記」はぜひ読んで欲しい。涙なしには読めない)。しかし、ミランコビッチの『地球における太陽放射のリズムとその氷河期問題への応用』出版の経緯も、中川氏が9冊目のその本と出会った経緯も、『大漢和辞典』ほどの執念と労力が費やされているわけではなく、偶然的な要素が大きいので、「負けず劣らず」とまでは言わないけれど、ドラマ性においては「匹敵する」と言っていいほどで、感動的だ。
 たかがJR東日本の広報誌、しかも無記名の記事である。私は書かれていることの真偽を確かめてはいないが、とりあえず、いい勉強をさせてもらった。