落とし穴「ルールを守ろう」

 そう言えば、昨年度はほぼ毎週、「担任のお話」と題した学級通信の記事を、この場で公開していた。今年も既に、新学期が始まって10日。なのに、一度も「担任のお話」は登場していない。ある人からそのことを問われ、なんとなく説明もしていなかったなぁ、と気付いた。
 実は、私は今年、正担任ではないのである。1年生に留年した上で、電気情報科の副担任になった。ついでに言えば、生徒指導部も外れて、35年の教員生活で初めての総務部に入った。理由は特に書くようなものでもないし、そもそも、管理職がその意図を詳細に説明してくれたわけでもない。まぁ、「不適格で更迭」だと思っていただいてよい。
 最初はなんだか心寂しいような気にもなっていたが、この10日間で、かえって気楽でいいや、と思うようになってきた。ともかく、そんな事情で、「担任のお話」は発行しておらず、したがって公開する記事もない、ということになる。すみません。

 ところで、4月2日の毎日新聞投書欄に、埼玉県の元小学校校長・渡辺さんという方(68歳)の投書が載った。題は「『ルールを守ろう』に疑問」というものである。わずか400字ほどの小論ながら、とてもよく出来た文章なので取り上げておく。
 氏は、「ルールを守ろう」が日本をダメにしているのではないか?と疑問を呈する。え!?小学校の校長先生だった方が、「ルールを守らなくてもいい」と言うのか?というのは、実に浅はかな反論である。氏の論理を抜き出すと次のようになる(平居による要約)。

「本来、人間の行動規範はルールではなく、道徳的な正義感である。しかし、正義は時として衝突することがあるため、ルールが必要になる。よって、ルールは守るものではなく、使うものだ。『ルールを守れ』と教えるから、逆に『ルールさえ守っていれば何をしてもいい』という発想が生まれる。」

 何が偉いかといえば、規範を人間の内部に求めているということである(→関連記事)。規範を内部に求めれば、あらゆる事態に柔軟に対応し、更にはルールの是非を問い直すことも可能になる。一方、人間の外側にあるルールを墨守すれば、氏の言う通り、「守っていれば何をしてもいい」すなわち「抜け穴探し」をするようになってしまう。抜け穴を塞ぐためには、更に多くの細かいルール(解釈を含む)を設定していくしかなく、その行き着く先は、まったく融通の利かないがんじがらめの窮屈な網の目社会だ。
 氏はこの後、「ルールを守っていれば何をしてもいい」という発想によって、自民党の裏金事件も発生した、と言うのだが、これは蛇足。なぜなら、自民党(主に安倍派)の政治家たちは、そもそもルールを守っていなかったからである。しかし、末尾で、問題のある政治家を「選んだのは国民であり、結局は国民の正義が問われている」とするのは、やはりその通りだ。立派である。
 ただ、私は、「日本をダメにしている」ものが、「ルールを守ろう」だけだとは思わない。あるいは、「ルールを守ろう」が「日本をダメにしている」のか、「日本がダメになった」から「ルールを守ろう」などという杓子定規が幅をきかすようになったのか、それも分からない。だが、どちらが先であるにしても、間違いなく言えるのは、そこには内面の崩壊という問題がある、ということだ。人間は、苦しみに耐えるにしても、正しい行動を取るにしても、内面によってでなければ本物にはならない。そういうものである。