「立て、行こう。」

 文化祭の話の続き(今日は絶望的に暗いですよ)。
 学校の文化祭のみならず、ちまたのイベントが私は苦手である。内容的な稚拙さもともかく、あの膨大な消費とゴミを見ていると、暗い気持ちになるのだ。クラスの企画は飲食店ばかりで、それらが全て使い捨て容器をためらいなく使用する。すさまじい量だ。私が暗い気持ちになる理由の中心は、ゴミの量よりも、それを出すことに対するためらいのなさだ。その多くが、二度と再生されることのない資源を用いたものであり、捨てた後は二酸化炭素という形で、袋に入ったゴミ以上にたちの悪いゴミになる。にもかかわらず、私が時にそんなことを言っても、気にしている人は生徒にも教員にも1人もいないし、消費に対する後ろめたさも一切ない。これは私の感覚では考えられないことである。
 加えて、東京で最も遅い真夏日を記録したという昨日は、石巻でも暑かった。25.6℃の夏日である。しかも、湿度が高く、夏の空気を感じさせた。すると、教室のエアコンが作動を始めた。教室のエアコンのスイッチは事務室にあって、各教室では操作できないようになっている。おそらく、教員の誰かが事務室にリクエストし、事務室がそれに応える形でスイッチを入れたのであろう。独自にスイッチを入れられる視聴覚室など、20℃くらいに設定され、しかも、一般公開が終わって閉会式のために誰もいなくなっても、スイッチは入れっぱなし、ドアも開けっぱなしだ。これまた、私の感覚では、どうしても耐えられないような暑さということもなく、そんな中でエアコンをフル稼働させること自体が罪なのだが、おそらく私以外誰もそんなことは考えない。「せっかくエアコンあるんだから、暑いと思った時には使わないと損だよ」という意識である。
 規則で禁止されていないことなら、お金さえ払えば何をしてもいい。これが社会のモラルである。
 私がたびたび持ち出す「新約聖書」の福音書には、次のような場面がある。


「逮捕を目前に予測したイエスは、弟子を連れてゲッセマネという場所へ行き、「私が向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と指示した上で、弟子のうち2~3人だけを連れて離れた場所に行った。イエスは彼らに対して、「ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい」と言い、更に少し離れた場所で、「できることなら、この時を過ぎ去らせてください」と祈った。ひとしきり祈った後、二人の所に戻ってみると、彼らは眠っていた。イエスはそれを叱り、改めて「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と命じ、「心ははやっても、肉体は弱い」と言った。そして再び少し離れた場所で祈りを捧げてから戻って見ると、やはり彼らは眠っていた。おそらく、イエスは前と同様に彼らを戒め、三度その場を離れて一人で祈った。そして戻ると、「時が近づいた。人の子は罪人たちの手に渡される。立て、行こう」と言った。この直後に、弟子ユダの裏切りによって、イエスは逮捕された。」


 イエスがこの後捉えられるのは、悪いことをしたからではなく、律法学者の妬みに民衆が付和雷同したからである。つまり、非常に感情的な理由と事情とによって、イエスは最終的に十字架で処刑されるのだ。
 イエスは、自分が捉えられ、十字架に付けられることを予想していたが、出来ればそれを避けたいという気持ちを持っていた。自分が十字架を避けることが出来るかどうか・・・イエスは自分の運命を、弟子たちの行動によって知ろうとしていたに違いない。
 上の話は、感情と理性の葛藤を象徴的に描いたものである。弟子たちが、イエスの命に応じて眠らずに祈っていれば「理性(すべき)」の勝ち。それが出来ずに眠ってしまえば「感情(したい)」の勝ち。弟子たちは「人間」を代表する。したがって、前者であれば、人間が理性に基づいて生きられるということだから、自分は十字架に付けられずに済むかもしれない。しかし、後者であれば、自分は十字架に掛けられる。
 弟子たちが、三度「すべき」に従えなかったことによって、イエスは、人間が「したい」によって生きるしかない存在であり、それ故、自分が処刑を免れる可能性がないことを悟った。私には、イエスの「行こう」が、深刻な覚悟と諦めを含み持つ重い重い言葉に思われる。
 ロシアやイスラエルの行動、日本の政治と社会のあらゆる出来事、そして身近な文化祭も、この世で行われていることはみんな同じ。感情に従って動いているだけという点で、私の目には一続きのものに見える。
 それらを見ながら、私はしばしば心の中でつぶやく。「行こう」と。おそらく、人間は間もなく終焉を迎えるのだ。