初代高橋竹山の死



 2月5日に初代高橋竹山が亡くなった。諸君にはピンと来ないだろうが、津軽三味線の大家、いや、教組とも言うべき人である。私も、今よりも更に見たい聞きたい精神の旺盛だった学生時代、仙台での演奏会に行き、正に圧倒されたのを鮮明に覚えている。2月7日付の朝日新聞に載った作家・長谷部秀雄氏による追悼文が甚だ秀逸なので引用しておく。


「最初にお目にかかったのは、一九七〇年代の初めごろ──

 青森県平内町小湊の家を訪ねて、お話をうかがっているうちに、「孤高の哲学者」という言葉が、頭の中に浮かんできた。

 そのとき聞いたいくつかの言葉が、いまも心に深く刻まれて離れない。

 ──三味線は、耳の学問です。

──小鳥といっても、どうして、たいへんに魂が深いものですよ。

 ──わたしの一生は、音色の探求、音色の創作です。

 このうちで、小鳥の魂についての言葉には、説明が必要だろう。

 仕事がないとき近くの山へ行って、小鳥の声を聞くのをなによりの楽しみとする高橋竹山には、音色で一羽一羽の違いがわかり、オスとメスや親子の間で繰り広げられる喜びや悲しみのドラマが、はっきり読み取れるのだそうだ。

 小鳥の心理を感じるほど鋭敏な耳で、自分が演奏する三味線に聴き入り、その音色をさらに深く澄んだものにしようと、たえず研鑽を重ねていく。

 それが自分の一生だというのである。

 よく知られているように、幼いころハシカで視力を失った竹山は、ボサマ(盲目の門付け芸人)に弟子入りして三味線を習い、独り立ちしたときから、長く漂泊の旅をつづけた。

 そのころ津軽からの出稼ぎ者が多かった北海道の石ころだらけの道を、鼻緒に針金を入れた足駄をはいて歩く。

 躓いたときに鼻緒が切れると、大怪我をしかねないからである。

 雪の下北半島で道に迷って死にかけたこともあった。

 途中で一度、浪花節語りの三味線弾きになり、巡業で寄った大阪で、多様な邦楽の三味線の伝統的な音色を知った。

 三味線で暮らすのが難しくなった戦争中、マッサージ師になろうと入った盲唖学校では、外国のクラッシック音楽の魅力に目覚めた。

 戦後、津軽民謡の第一人者成田雲竹の伴奏者をつとめたことから、やがて独奏者への道が開かれる。

 世間から蔑みの目で見られたボサマ時代からの長い苦しみと悲しみを、竹山はいつしか比類なく深い音色の透明な音楽に昇華させていた。

 戦前の農民や出稼ぎ者の暮らしは、いまとは比較にならないほどつらいものだった。そうしたなかで必死に生きる人々は、自分よりさらに深い悲しみを味わった人の音楽によって、心を慰められ、癒される。

 また三味線独奏という器楽の持つ普遍性によって、竹山の支持者は、年寄りから若者にまでひろがっていった。

 民謡の歌い手の伴奏者にすぎなかったところから、独奏者の地位を確立した竹山は、津軽三味線を芸術の域に高めて、七〇年代の津軽三味線ブームの原動力となり、さらにモスクワ、ソウル、ニューヨーク、パリと、世界各地で成功を収めて、日本のローカルな音楽を世界の音楽にした。

 自ら繰り返し語ったように、好きでなったのではなく、生きていくために仕方なくなったボサマから出発して、ついにそこまで到達したのである。

 見事な生涯であったと、心から賛嘆とねぎらいの拍手で送らずにはいられない。」