義務と共に生まれてくる?



 謹賀新年

 これといってしなければならないこともなく、のんべんだらりの正月であった。もっとも、12月中に繰り返して風邪をひき、ずっと体調が優れなかったので、どっちみち家にいるしかなかった、というのが正直なところである。

 暇になると本を読むくらいしかすることがない、というのが我ながら哀しい。普通の読書の他、変ったところでは『英和辞典』を熱心に読んだ。ALTのトラン氏が来てから英会話で苦労することが多く、しかも、冬休み明けにはベトナムの話をしようだの(トランは父母の祖国ベトナムを訪問中)、私が彼に「儒教」の講釈をするだの約束した手前、高校卒業以来真面目にやったことのなかった英語の勉強をしようなどと思い立った次第である。

 これが、やってみると結構面白い。一方で、読みながら、自分が高校時代、英和辞典などというのは甚だ気の重い存在で、まして、それを参考書として読むなど全く思いもよらなかったな、と思った。

 なぜか?試験に出る出ないというのを気にしなくてもよいというのも理由の一つであろうが、それよりも、義務感の全くないところがよい。誰から頼まれている訳でも、何かの責任が伴う訳でもないのである。

 思えば、学期の最中に本を読むとなれば、どうしても授業の予習がらみが多い。そこには必然的に義務の意識がつきまとう。しかし、基本的には元々義務だった訳ではないのだ、などと思っていたら、新聞に、過去のオリンピックで金メダルを取ったある日本人選手の記者会見に出席したフランス人記者の、次のような言葉が載っているのが目に止まった。それは、「フランス人は権利を持って生まれてくるが、日本人は義務と共に生まれて来るんだね」というものである。この記者は、せっかく金メダルを取った選手が少しも晴れやかな顔をしていないのを見て、そのように言ったのだが、これは勿論、スポーツに限らず、あらゆることについて同じことが言えるはずだ。

 本来権利であったはずの勉強は、なぜこれほど義務的になってしまったのだろうか。しかし、私達が一度見方を変えて、学ぶことを権利として見ることが出来れば、それはどれほど楽しいことだろう。諸君だけではなく、私にとってもとかく義務として意識されがちなものを、今年は出来るだけ、自分に与えられた権利としてとらえ直してみよう。正月、『英和辞典』を読みながらそう思った。