情報はむしろ過剰である



 昨日、生徒会誌に載せるための座談会というものがあり、私は、なぜか今年も呼ばれて(呼んでいただいて?)参加した。そこそこは面白かったのだが、まぁ、座談会というよりは、教員が説教する会のような感じも多少はした。

 進路を選択するための情報がもっと欲しい、と生徒が言う。私なぞは、何をバカなことを言っているか、と思う。現在、求めさえすれば、情報などというものは過剰であることはあっても、不足などはあり得ない。東京と石巻の格差も存在しない。

 私が面白いなぁと思ってよく見る本に『職業まるわかり事典』というのがある。何のことはない、職員室近くの進路情報コーナーにあったものをもらってきただけの、ごくありふれた無料冊子である。将来やりたいことが見つからないという生徒に、私はしばしばこの本を紹介するのだが、残念ながら、今に至るまで、丁寧に読んだという生徒に出会っていない。その生徒がこの本を投げ捨てた後に、私が口頭で解説してあげなければならないだろうか?それをしなければ、教師としての責任を果たしていないことになるだろうか?

 自ら求めない人、先生から平易に解説されなくても、本を読んででも情報を得たい、問題を解決したいという問題意識と意欲と能動性のない人にとって、情報が不足するのは当然のことである。そしてそれは、自分自身の意欲や行動力の不足を、自分の外にある情報の不足ということに責任転嫁しているだけだ、ということに気が付く必要があるだろう。

 学校でやっている勉強の内容を、きちんと身に付けている人はまれである。大抵の人は10%も本当に自分のものにはしていないのではないか?50%も身に付ければ普通の国公立大学には入れると思う。にもかかわらず、授業だけではダメだということなのか、特編授業の欠席者はどんどん増えた。どこで何をしているのだろう?学校でやっていることに不足があるのではなく、それではダメだと思うことで自分自身の責任を免除していないか、つまりは言い訳をして逃げてはいないか、一度自らを見つめてみる必要はありそうだ。