試験の功罪



(進路部発行「卒業生便り」(=浪人生に対する激励文集)に寄せたもの)

 元気で勉学に励んでいることと思う。私も元気だ。新学期が始まって1ヶ月経ち、ようやく足が無意識のうちに4階へ向くということがなくなってきたが、新入生に対してカルチャーショックを感じること甚だしい。大人しく受け身の1年生を前にして、私から雑談を引き出そうと手ぐすね引いていた諸君のことをよく懐かしく思い出す。

 さて、浪人している諸君に「激励」の言葉を書け、とのことであるが、既に諸君の知る通り、私は根っからの天の邪鬼である。「激励」なぞは他の人がしてくれるだろうから、今回もあえて、他の路線で行く。

 「選抜試験」というものは必要あって生まれたとはいえ、それが何かしらの弊害をもたらすことは、古来多くの人に指摘されてきた。学問の本質が競争にはなく、選抜試験の本質が競争にある以上、当然と言える。究極の選抜試験「科挙」についてでなくとも、「試験」の弊害についての発言を探すのは難しくない。

 今春の卒業式の日、3年6組の諸君に私は餞として哲学者・三木清の「学生の知能低下について」(昭和12年)という一文を贈った。三木はその中で、功利主義と理想主義を対置させ、功利主義を代表するものとして入試や就職試験を挙げる。そして人は社会的関心に基づき、好奇心、懐疑心、理想主義的情熱によって学ぶ時、その知能を大いに向上させる一方、功利主義的発想に基づいて学べば、知識は増えても、知能はむしろ低下すると指摘する。そして「功利主義者ミルでさえ、幸福な豚となるよりも不幸なソクラテスとなることに真の幸福を見出した」と語り、若者が功利主義から脱却することを求めると共に、若者にそれを強いるかのごとき社会の変革を訴えるのである。

 また、詩人として有名な高村光太郎は、「もし私に子供があったら何にするか」というアンケート(大正12年)に対し、当惑を示した上で(彼には子供がなかったから)、「試験制度万能の世の中に子供を出したくない」と答えている。根拠として、高村は「試験制度をくぐって来た人間の頭には、どうしても取り去れない或るたががかかってい」ると述べる。そして、おおらかで開放的な、人間らしい人間になるために絶対の条件が、試験を無視し、試験をくぐり抜けることなく成長することだ、と明瞭に言い切るのである。

 二人に共通するのは、「試験」(特に選抜試験)というものが非常に強い利害打算(この場合の利害打算はもちろん自分もしくは狭い世界の利害打算であって、人類全体にとっての、ではない)の源になっているということ、それを大切に考えすぎると目先の結果ばかりにこだわる小さな人間になってしまうということだろうと思う。

とはいえ、私でさえも浪人諸君に「受験なんかやめてしまえ」とはまさか言えない。しかし、彼らが指摘するような試験の弊害は決して事実無根なものではないとも思う。どんな事でも、たとえ一時的にでも唯一絶対の価値観を持ってしまうことは危険である。よって、入試を相対化すること、すなわち、入試は一人の人間のほんの一部分の能力だけを計るものであり、また入試は、今諸君が持っている(はずの)人類の幸福と平和に貢献するような大きな理想の実現のために越えざるを得ない一つの小さなハードルに過ぎないということを、常に心の片隅に持っている必要があるのではないか。少なくとも私は、諸君が来春、東大に合格したとしても、決してそれだけでは喜ばない。また、諸君が有為なればこそ、その程度の志で満足して欲しくないとも思う。