手記「妻の死」



 先月出版された自著を、「お礼」や「記念」としてあちらこちらに送ったところ、ポツリポツリではあるが、「受け取り」もしくは「お礼」とも言うべき手紙が来る。著書を通してしか知らなかった人や、年賀状だけの形式的な付き合いになってしまっていた人から手紙をもらうのは嬉しいものである。

 そうしていたところ、先週の始め頃、高校1年生の時の担任(今の諸君にとっての私と同じ立場であることに感慨を抱く)N師から、分厚い封書が届いた。開けてみると、二通の手記が同封されていた。驚いたのはその内の片方、「妻の死」と題されたものである。毎年年賀状だけは差し上げていたし、N師からもいただいてきたのだが、喪中葉書など受け取った記憶が無く、3年前にご婦人を亡くされたことなど私は全く知らなかったのである。

 驚きは、その手記を読んだ時の方が強かった、と言うべきだろう。いや、「驚き」というより「感銘」と言うのが正しい。N師には30年近くお世話になっていながら、師の家庭の話など伺ったことはなく、奥様にお目にかかったこともないのだが、この文章を読んで大変立派な方だと思ったし、このような方に支えられてN師があり得たということも分かったような気がした。そして、その最期は、正に師が手記で言う通り、「命の授業」を成し遂げたものだっただろう。人間の生き方や死に方について、実に多くのことを学ばせてくれ、また励ましを与えてくれる。

 以下に、その手記を引用しよう。無断引用だが、自分の生き様、死に様が、自分の知らない宮城の高校生の学ぶ材料になることを、故人は決して嫌がらないだろう。いや、むしろ故人の本意に適ったことであって、その引用は、故人の冥福を祈る最善の方法のようにも思う。


「妻の死」(2004.7.12記)

 妻が亡くなった。乳ガンの手術(2期、リンパへの転移4箇所発見、46歳9ヶ月)を受けてから丁度10年目の死だった。半ば安心していた6年目に、腰骨への転移が見つかった。思えば、これがガンとののっぴきならない第2ラウンドの闘いのスタートだった。骨転移の標準治療である放射線では、本人にはあまり効果が見られず、その後何回か抗ガン剤治療を受けた。全国の多くの乳ガン患者のホームページで知った多様なサプリメント等の情報のおかげからか、この4年間のうちには、CTやレントゲンなどの検査では、一時的にしろ好転が見られることも再三あり、担当の医師を少し驚かせることもあった。しかし、昨年の夏頃、階段の昇り降りが出来なくなるほどの全身の強烈な倦怠感に襲われ、赤血球の著しい減少(10月入院時では、最低の4.9まで下がっていた。正常値は12.0〜15.0)が見つかった。難聴児の戸別訪問による相談指導という長年にわたる希望の仕事が、残念ながら続けられなくなり、長期にわたる病欠(やがては休職)を余儀なくされることになった。その後、今年3月上旬まで、計12週間にわたる3回の入退院を繰り返した。この間担当医から、骨髄への転移を告げられ、元気で退院できる可能性は半々だと知らされ、状況の厳しさをようやく理解した。闘病生活の第3ラウンドに入った。この間、骨の強い痛みやひどい咳や体温の乱高下(高い時はのどの炎症から39度台に、低い時は34度台前半になることもあった。35度前半の体温がガンが最も好むところらしい)に苦しめられることもあったが、抗生物質や抗ガン剤(タキソテール)投与のおかげで、その都度、日常生活を送れるほどには回復し退院した。この4月、5月、何とか小康状態を維持しながら日常生活を続け、5月中旬には1泊2日の浜名湖花博の旅行にも出かけるほどの元気さを取り戻していた。しかし、その直後に受けた抗ガン剤(昨年10月以降8回目の投与)の副作用がこれまでになくきつく、咳、手足の痺れ、むくみ、食欲不振、頭髪の脱毛などのあらゆる症状に悩まされる日々が続いた。やがておさまるはずの症状が6月になっても一向に回復しなかったため、これは単なる副作用ではないのではないかという不安が、互いの口には出さないものの、それぞれの頭をよぎりだした。受診した結果、肝臓の各種数値の桁外れの異常、腫瘍マーカーの急激な上昇、血小板の危険水域レベルまでの低下など、深刻な事態への急変を告げられ、即刻入院を命ぜられた。ふだんは冷静で優しい担当医の厳しい指示に戸惑いながらも、落胆した気分の中、入院の準備をせざるを得なかった。その2、3日前から、身体に黄疸の症状や腹部の異様な腫れが見られ、二人とも今回の入院の深刻さを認識していたが、医師の予想以上に厳しい口調は更にそれに追い討ちをかけるものだった。入院したその日の検査では、各種数値の更なる悪化が知らされ、肝臓への播種転移も知らされた(4月の検査では異常なしと言われ、もう2年はいけるねと本人も安心していたのだが)。血小板の数値から判断して、いつ何時身体の内部で出血があっても不思議ではないと告げられ、1週間か10日くらいの余命だと知らされた。血小板の輸血はするが、それは対症療法に過ぎず、別の抗ガン剤という選択肢はまだ残っているものの、現状ではかえって命を縮めてしまい、奇跡に近い本人の自然治癒力に委ねる(つまり何もしない)しかないとの言葉だった。これを聞いていた妻は、ただ動揺する私を尻目に、冷静に耳を傾け、こうとだけ言った。「わかりました。今度こそ覚悟しないといけないということですね。」病室に戻った彼女は、放心状態の私を慰めるかのように、「仕方ないよ。10年前に命を失っていても文句は言えなかったし、この10年があったおかげで、おばあちゃんを見送れたし、二人の子供も大きくなった。ただ、心配なのは、爺(私のこと)だけ。したかった仕事(学校卒業後の聴力障害者のための相談センター設立という夢)はあるけど、それは又誰かがやってくれるだろうし。でも、先に逝ってごめんね」と涙ながらに言った。1年前からの体調不良以来、後に残された場合の心構えや預貯金の手続きなど、生活上の注意を二人でよく話し合っていたが、正直、私にはまだどこか本気になっていない部分、いや本気にはなりたくないという甘えがあった。しかし、今回はそれが一挙に逃げようのない現実そのものになってきたことを否応無く知らされることになった。4年前の骨転移が見つかって以来、いつかは腰骨が折れて、車椅子生活を余儀なくされる日が来るかも知れない、その時は、今の家をバリアフリーにしないといけないな、といったことは話し合っていたが、肝臓への播種転移はあまりに虚をつくもので、その悪化の速さにはガンという病気の怖さを、今更ながら思い知らされることになった。

 それにしても、その翌日からの彼女の動きは見事の一言だった。後に残される私達への気遣いから、今のうちにできることはしておこうと、声を振り絞って携帯でいろいろな人を呼び出し、いろいろなお願いをしていた。「私、今回はもうだめみたい。もって、後1週間だって。」あまりに唐突な話に本気にしない相手に、こう言った。「冗談なんか言っている時間はないの。じかに会ってお別れをしたいから、よかったら病室に来て!」そんなびっくり仰天の電話を受けた友達が10人余り、急いで駆けつけてくれた。姫聾の元同僚の先生や卒業生に弔辞、手話通訳のことも依頼をした。式を司ってくれる金光教の教会の奥さんにも来てもらい、血まじりの咳や倦怠感の苦しさの中で、必死に言った。「葬儀センターのクレオにもお願いしてね。お花で一杯の式にしてって!主人はこういうことが苦手な人なので、一つ一つ教えてやってね。」生命保険会社の担当の人にも病室に来てもらい、自分の死後の手続きの依頼をした。そばにいた私達は一同その気力とやさしさにただ感動するばかりだった。急遽再び帰ってきた二人の子供にも、一人一人抱きしめ、「3人の家族仲良くして、お父さんのことを大事にしてね。お母さんはいつも見ているよ。」と親として最後の言葉をかけた。また、久しぶりにそろった3人姉妹そろって記念写真を撮り、体調が極めて悪いのに、精一杯の愛嬌を振りまいていた。「この中から一番きれいに撮れているのを式の遺影に使って。古いのはだめよ」死んでから着る服の指示もし、家から持ってきた現物を確認し、安心の表情を浮かべた。彼女の考えに何らかの薫陶を受けた多くの若い先生達が、病気の急激な悪化の報を聞きつけ、必死の思いで病室に駆けつけてくれた。死の3日前の木曜日夕方には、集まった彼女たちに最後の教育論を残りの命を振り絞りながら、10分近く披瀝した。「障害児教育には理論も大事だけど、でも優しい心、熱い思いがないといけないと思うの。障害を背負った子供のために、私の分まで精一杯頑張ってね。」彼女のこの信念には、生まれつき難聴を背負った私達の長男への母親としての必死の思いが込められていることは確かだった。「あんたが少しでもまともで、優しくなれたのは、あの子が障害を持っていたからだと感謝しなさいよ。あの子が私達家族の業を一身に背負ってくれているの。それを忘れたらあかんよ。陰に陽に苦しい思いをしているあの子を絶対大事にしてね。」何とか言葉が話せたのは、木曜日夕方が最後で、その後は、半ば昏睡状態の中で眠っているばかりだった。時々口に入れてやる水(始めはスイカ果汁も)をおいしそうにごくりと飲んだ。しかしそれもやがては唇を濡らす程度のことしかできなくなり、日に日に体力の衰えが目立った。その中でお腹の異常な腫れと全身の黄疸はひどく、「ガン細胞め!ここまで痛めつけるか」と叫びたかった。1時間でも生きていて欲しい。でも、痛みや苦しみがこれ以上ひどくならないことを祈りつつ、もう十分頑張ったので楽にしてやりたいという気持ちも、一方では否定できなかった。(担当医は言った。おそらくこの状態のまま推移し、モルヒネを打つほどの痛みはないでしょう。)

 この10日間、不思議に思ったり、気が付いたことがある。それについてぜひ書いてみたい。多くの友達や知人がお見舞いに何回も足を運んでくださったのは、彼女の奇跡的な回復を心から願いつつ、またそれこそ最期の悲しいお別れになることをひしひしと感じて下さったことの表れだと思う。特に、夫婦そろって、また子供を連れて見舞いに来て下さったのも、何か印象に残ることだった。皆が、それこそ一人一人の人がこぞって、彼女の枕元で言われた。「ありがとう!先生。」つらい、苦しい場面、若い子にはあまりにショッキングな対面に、我が子をわざわざ連れてこられた親御さんの気持ちを推測すると、あんな元気一杯だった先生だって、死ぬ時にはあんな姿になるんや。これまで先生にお世話になったことを自分の口からありがとうと言い、最期のお別れをするんやで、そしてその最後の姿を目に焼き付けておきよ。人の死はどんなに悲しいかよく覚えておきなさいよ、といったようなものではなかったか。彼女は今回入院直前に言っていた。「立場上や仕事上など義理で見舞いに来る人は断って。でも心から最後のお別れに来る人には、病室にぜひ入ってもらって。自分は意識がもうないかも知れないし、頭の髪もなく、お腹が膨れた不格好な姿かも知れないけどね。」彼女は死ぬ時まで、いろいろな人に人として大事なこと─それは生きることのかけがえのなさ、優しさだと思うが─を伝えようとしたのではないか。そしてそれは確実に伝わったような気がする。彼女は最後にそれこそ「命の授業」を見事にやってのけた。お通夜には、それこそ私達の予想をはるかに超える人達が駆けつけてくれた。彼女は行く所どこでも、それが仕事の関係であろうと、プライベートな付き合いであろうと、趣味の世界での出会いであろうと、また隣保の付き合いであろうと、どこでも心からの優しさや真心を振りまいたような気がする。

 又、この1週間、いろいろな人が病室で互いに顔を合わせられる場面があったが、共通の知人があったり、幼馴染みであったり、いかにも人の「出会い」を思わせる場面が多々あった。皆さんが本当に優しさに溢れる人ばかりだった。やはり、彼女が最後に引き寄せた人と人との出会いであったような気がする。今回ほど、人の優しさについて考えさせられたことはなかった。もちろん、親切な言葉掛けも、時には大事だが、本当の優しさとはそんなことではない。苦しんでいる人のそばに付いていることこそ究極の優しさのような気がする。苦しんでいる人を見ていると、そしてその相手が自分に身近な人であればあるほど、自分にもその苦しさが伝わって、その場から逃げ出したくなるのが人情だ。それをその場にとどまらせるものこそ、人としての優しさではないか。それを身をもってやってくれた多くの人達に彼女と共に、心から感謝したい。

 彼女は頭の回転の速さ、現実的な問題に対する迅速な処理能力、行動力、そして何よりも曲がったことの嫌いな前向きな姿勢など、人より長けたものを多く持ち合わせていたが、彼女の真骨頂はやはり人、特に弱い人に対する本当の優しさであったことは、彼女を知る人ならすべて認めて下さるように思う。でないと、あれだけの人達が、最後の別れを心から惜しんでくれたはずはない。

 今改めて思う。56年の人生だったが、普通の人の70年に十分値する本当に凝縮された人生だったと。生き急いだね、というのが実感だ。ただ、あふれる能力や意欲の割に身体の面ではもろさを持っていたのかも知れない。意外と神経が細やかだったから(それが彼女の本当の魅力だったように思う)。母性と個性の両方をバランスよく合わせ持った稀有の女性だった。大学で知り合って以来のこの30年余り、私にはかけがえのない同胞であり、戦友だった。(でもその実際は、いろんな意味で、私が彼女の庇護のもとにあったような気がする。いなくなってまだ2週間なのに早くもそれを痛感する。これからこのことをいやというほど思い知らされることになるのだろう。)友達感覚で結婚したものの、中年以降お互いの姿勢や価値観の違いに気付き、ついには離婚に至ることが多い団塊世代の夫婦には珍しく、いつまでもいいライバルであり、パートナーであった。あ-うんの呼吸の寡黙な熟年夫婦のイメージとはほど遠い、いつまでも言葉のやり取りの多いO型同士のコンビだった。しかし、正直言って、昨年の病気再発までは、お互い仕事など何やかやで忙しい日々を送り、日常の雑務の処理にのみ追われ、生きることの根本的な問題などほとんど語り合ったことがなかったような気がする。でも、昨年の夏以降のこの1年、死を含めて多くを語り合ってきた。万が一のことを考えて、預貯金や生命保険など極めて現実的な事も話し合ってきた(その意味では、私達は2回目の出会いをしたのかも知れない)。この1年は今度の死を迎える心や生活上対処の準備期間としてとても意味があったように思う。昨年の夏に今回のような異変があったなら、心の面でも、生活の面でもほとんど途方に暮れていただろう。「よくぞ、この1年、体調の悪い中、頑張ってくれた。お見事!」と声をを掛けてやりたい。彼女の「私が死んでもこぎれいにね!そして再婚は絶対だめよ!」と口を酸っぱくして言っていた元気だった頃の言葉がいつも耳に響いている。そして、「この1年、まあまあ、成長したね」と言っている声も時に聞こえてきそうだ。本当にご苦労さんでした。何年か経ったら、向こうでまた会いましょう。