悪は悪、不正は不正・・・なのかなぁ?(検察論)



 国会が始まった。政権が変って初めての予算審議が行われるわけだから、さぞかし新鮮な議論が行われるのかと思っていたら、十年一日、相も変わらず不正な金がらみの発展性のない話が続いてうんざりする。外国に対しても恥ずかしいと思う。と言うと、いかにも民主党の幹事長や首相への不満たらたらのようだが、そんなことは誰でも言うことなので今更言わない。むしろ、私が思うことは以下の二つだ。

 一つは、不正を犯した人間には「政治」を行う資格がないのか、ということである。

 例えば、極悪非道な人間でも、科学者として有能だということはあり得る。その場合、彼がその極悪非道な人間性によって、社会に害を及ぼさない限り、彼の行動は制限すべきではなく、彼の科学者としての才能によって、社会に恩恵がもたらされるようにすべきだろう。政治家は違うだろうか。

 確かに、政治家はスポーツ選手や芸能人と同様、人目に付く存在なので、特に青少年への悪影響を考えた場合は、立派な人格者でなければならず、従って不正を犯すなどというのは、あるまじきことだということになる。もちろんそれは理想であり、本来はそうあるべきであろう。

 しかし、私はその人の倫理的な正しさと政治的能力は、上の科学者の場合と同様、別の扱いが可能だとも思う。まして、政治などというものは「権謀術数」がつきものなので、清廉潔白に過ぎる人間は政治的能力にも劣る、ということがあるような気がする(「水清くして魚棲まず」とも言う通り、あまりに清廉潔白な人には、そもそも人が付かず、人の付かないところで利害の調整=政治は成り立たない)。不正を犯している人間だから、たとえば経済の立て直しとか、更には教育問題の解決とかも倫理に悖るやり方になる、というものでもないだろう。

 だとすれば、彼の犯した不正は不正で糾弾するにしても、彼の政治活動、まして国会の機能が麻痺してしまうような大騒ぎは止めて、それはそれ、これはこれ、という対応が出来ないものであろうか。国会を一日開くと何百万円だか何千万円だかかかるという話も聞いたことがある。

 もう一つは、そのこととも関係するが、「検察」のあり方に対する疑問である。

 今年4月7日、本年度最初のこのプリントの裏面に4月1日付『朝日新聞』の元東京地検特捜部長・宗像紀夫氏へのインタビュー記事を引用しておいた。そこには、昨今の検察のあり方についての示唆に満ちた意見が沢山含まれていた。今月19日、同じく『朝日新聞』に、元東京地検特捜部副部長・永野義一氏による、同様に現在の検察の体質への疑問をつづった記事があった。両者を読むと、検察の幹部OBが今の検察のあり方にいかに強い危惧を抱いているかよく分かる。ごく簡単に言えば、それは「政治への配慮」「(国民によって選ばれた人である)政治家への配慮」の希薄さである。

 以前、あるハンドボールの専門家から、上手い審判と下手な審判の話を聞いたことがある。「反則というのは、何でもかんでも笛を吹けばよいというものではない。試合の流れの中でどうでもよい反則はあえて無視して、試合の流れを断ち切らないことが大切だ。下手な審判は、むやみに笛を吹いて、試合の流れを目茶苦茶にする。すると、反則を犯していない側の選手にとってもプレーがしにくくなる」というような話だった。思えば、運転免許を取って一度もスピード違反を犯したことのない運転者はいないだろう。いや、生まれてこの方、一度も法に触れることをしたことのない人はいないに違いない。警察のお世話になったことのない人というのは、単に警察の手にも限界があるとか、運が良かったとかいうのではない。世の中の触法行為というのは、全てを取り締まることが決していいわけではないという暗黙の了解の元で、世の中の邪魔をしていないから罪に問われていないのだ、と思う。

いつぞやの「草薙剛事件?」に象徴されるように、マスコミを中心として、世の中は虎視眈々と「悪者」を探している風潮がある。今回の不正資金疑惑が、結果としてどれほど「悪い」ということになるか分からないけれど、私は今回の事件をそんな文脈の中に見る。「法」に触れれば、建前上「そんなのたいしたことではない」とは言いにくい(宗像氏も永野氏も、小沢氏の問題がただの「政治資金規正法違反」だけで終わったら、国民が納得しない、検察がダメージを受ける、というようなことを言っておられるが、そんなことはないだろう。マスコミが大騒ぎをし、それに反応する形で国民も騒ぐに違いない)。野党だって、是非は考えず、攻撃の材料として飛び付くだろう。しかし、それによって、世の中がよくなりそうな気なんて微塵もしない。国会の貴重な審議時間が空費され、国際的信用が低下し、私のような「うんざり」や、人間不信、政治不信が増えるばかりのような気がする。永野氏が言うように、議員が国民の代表であり、社会的影響が大きいだけに、せめて、はっきりするまで公にしなければいいのだ。

 不正は不正だ、というような建前論の暴走も恐ろしい。世の中が窮屈で息苦しくなるのも確かだし、オウム真理教事件の時、教団幹部の何人かが「建造物侵入」という微罪で逮捕されたことを思い出さずにはいられない。