社会性が無くても普遍的(サリンジャーの死)



(1月29日『河北新報サリンジャーの訃報引用 見出し省略)

 サリンジャーが死んだ。世の中とは完全に縁を切って生きていた割には、各紙が一斉に、しかも大きく報道していた。

 実は一昨年であったか、大学で英文学を専攻することにしたとかいう卒業生が遊びに来た時に、サリンジャーがまだ生きているということを聞いて、正にびっくり仰天した、ということがあった。それほどまでに、作品が有名でありながら、世の中に現れることなく生きていたのである。そんな社会性のない人が、なぜ万人に愛される作品を書けたのかというのは興味深いことで、この訃報をきっかけに、私は『ライ麦畑でつかまえて』(野崎孝による旧訳)を読み直してみた。

 かつて全く私の趣味には合わないと思った作品が、感動とは言えないまでも、意外に面白かった。以前読んだ時には読み方を間違えたのだと思った。すなわち、小説というのは、最後の結末に向って伸びるストーリーが命だと思い、それに私自身がこだわっていたのだが、この作品はストーリーなどはどうでもよくて、一つ一つの場面における主人公の心の揺れ動きこそが主題なのだ、と気付いたのである。サリンジャーの人柄・生き方と作品の普遍性のミスマッチが解決したわけではないが、小説の読み方に少し目を見開かせてもらった。