先週の木曜日、7月30日の朝日新聞で、小尾旭(おび あきら)氏(90歳)の訃報を目にした。2ヶ月前なら絶対に気に留めなかった小さな訃報である。というのも、記事にもあるとおり、小尾氏は山本直純のマネージャーを長く務めた方で、先日、私が山本について書いた時(→こちら)にさんざん引用した、柴田克彦『山本直純と小澤征爾』(朝日新書、2017年)にも頻出する名前として、最近とみに私の心の中で有名になった方だったからである。
もう8年も前の話、音楽評論の大御所・吉田秀和氏が死んだ時、私は「中原中也という人を知ること」というタイトルで一文を書いた(→こちら)。詩人・中原中也を直接知っている最後の人物が亡くなったことをきっかけに、人間を知るということが、文章であれ楽曲であれ、作品を通して知るということと本質的にまったく異なる、というようなことを述べた、正に「駄文」である。
思えば、柴田氏の本などを読む限り、山本直純という人も中原中也に負けず劣らず特異な人間性の持ち主だったようだ。ひどく外向的、発散型という点で、中原中也とはまったく正反対と言っていいような性格だが、「特異」という言葉でくくれば、同じになってしまう。柴田氏は山本の人間性を「昔気質の無頼漢」「破天荒な破滅型」などと評する。少し例を挙げよう。
小尾の後を継いで、1989年から2002年に山本が死ぬまでマネージャーだった岩永直也氏の言葉。晩年、山本に依頼される仕事が減っていったことについてのもの。
「世の中が少し変わってきた。直純さんも滅茶苦茶な人だったから、皆から少し距離を置かれ始めました。何しろ物事を決めるのにも手間と時間がかかるし、そのために何日か夜のお付き合いをしなくてはいけない。つまり朝までお酒ですね。すると、昔の人は良くても、若い人たちは我慢できない。」
さだまさしが初めて山本と仕事をした日、仕事が終わるとさだは山本から「鮎つかみ」に行こうと誘われる。その時の話。
「『どこどこの旅館に、夕方までに来い』と言われて、ともかく行ったら、河原の岩をどけてプールを作り、業者が来て、鮎の入った水をざーっと入れた。その池みたいなところで、直純さんが『さあ、つかめ!』って言う。『いや、つかめって言ったって・・・』『こうやってつかんでこう。わー!ほらほらほら!つかめ、つかめ、つかめ!』と、もうはしゃいじゃって、俺もつかむんだけど、『先生、これ楽しい?』って言うと、『バカ、おまえ、楽しいじゃねえか、おい。鮎なんてつかんだことねえだろ』と。確かに経験はないけど・・・。直純さんは『この後、これ、みんなで食うんだ』と言って、その日はもうずーっと鮎を食べさせられてね。翌朝仕事があったのに、『泊まれ!』と言われて、夜もさんざん飲まされた。それが付き合いの始まりでしたよ。」
『山本直純と~』を読んでいると、他にも、こんな話がいくつも出てくる。読んでいると楽しい。だが、身近にいたらさすがにたいへんだ。それでも、このようにまったく無邪気に自分の「素」をさらけ出して、リアルで濃厚な人間関係の中で生きていた人を、私は魅力的だと思う。それは私たちが、「個人情報保護」なのかどうかは知らないが、自分に関する情報をできるだけ隠し、「オンライン」で人と接する機会が増え、当たり障りのない人間関係の中で、ストレスも少なくなったのかも知れないが、人と交わることから得られる感動も学びも少なくなった、そんな日々を生きているからかも知れない。
小尾氏はミリオンコンサート協会の代表として、1962年に山本のマネージャーになった。小尾氏の年齢で言うと、32歳から59歳まで、27年間も、その任に当たったことになる。これは壮絶な時間だっただろう。山本直純という個性を直接知る、いや、よく知る人が1人減ったというのは寂しい。さだまさしを始め、山本を直接知る人はまだまだたくさんいるはずだ。とはいえ、中原中也を知る吉田秀和が死んだ時に抱いたのとよく似た思いを、私は抱く。合掌。