森鴎外『舞姫』考


 昨日は、仙台市内の某高校で、県内の国語教員の集まりがあって、宮城教育大学・渡辺善雄氏による講演「『舞姫』─愛の悲劇とその背景─」が行われた。

 非学にして私は初めて知ったのだが、現在教科書に載っている『舞姫』はオリジナルではなく、発表の2年後に大きく改訂された上、更に晩年に手を加えられたものだという。これが決定稿として『鴎外全集』に採録されたため、教科書もそこから引いているのだそうだ。

 渡辺氏によれば、最初の大改訂の際、冒頭に置かれていた「条約改正に頭を痛めた大臣が、その実務適任者として太田豊太郎を随行員に加えて帰国した」という部分が削除されてしまった、それによって、『舞姫』は自分の出世のために恋人を捨てた駄目な男の物語に変化し、なぜ豊太郎とエリスの仲が引き裂かれたのか説明のつかない作品になってしまった。だから、『舞姫』は初出形で読むべきだと、氏は主張する。また、渡辺氏は、大臣に取り立てられた太田豊太郎が、エリスを捨てる選択をせざるを得なかったのは、エリスが舞姫(踊り子)という非常に賤しい身分であったからという理由に尽きる、と繰り返し訴えた。そして、これらのことを言うために、『舞姫』が発表されて以後の、様々な『舞姫』論を批判的に紹介する。その多くは、倫理的な観点に立ち、恋人を捨てた主人公・太田豊太郎を罵倒する性質のものであった。

 渡辺氏が紹介する過去の『舞姫』論は、私にしてみれば、ちゃんちゃらおかしかった。小説は道徳の教科書ではない。だから、そこにいくら非道徳的なストーリーが展開されていたとしても、作者が目指したものが、道徳に反する思想をあえて世に広めることだったならともかく、そうでなかったとしたら、議論の前提が異なるわけだから、してもしかたのない議論にしかならない。なぜそうなったかというと、『舞姫』は、豊太郎が法学部出身で、免官されたとか、エリスが発狂したとかいった、森鴎外に関する事実と明らかに違う内容を含むにもかかわらず、どうしても豊太郎と鴎外が重なり合ってしまうということや、鴎外が、内容的には以下の私の考えと重なり合う点が多いとは言え、俗論とも言うべき『舞姫』批判に対し、正面から反論を繰り返したりしたことが火に油を注ぐ結果になってしまったということがあるだろう。

 以前(2011年2月21日)、私は芥川龍之介の『羅生門』について、同様のことを書いたことがある。『羅生門』は、老婆と下人のどちらが悪いかという話でないのはもとより、生きるためには盗みも許されるかどうか、という話でもない、少なくとも、授業で扱う時には、それらの点に目を奪われすぎてはいけない、形象を正確に読み取り、その異常な情景を描くことが出来るかどうかがテーマとなるべきなのだ、という主張である。

 また、サリンジャーの訃報に触れた際(2010年2月16日)、『ライ麦畑でつかまえて』という作品は、モラルであるとかストーリー、結末といったものが大切なのではなく、場面場面における主人公の心の揺れ動きこそがテーマなのだ、と書いたこともある。

 つまり、文学作品というのは、その作品を通して作者が言いたかったことを、題目化できる主題として読み取ることだけが読み方ではない。まして、その主題について善悪を論じるということに、常に意味があろうとは思えない。作品の読み方は、作品の性質によって、おそらくいろいろな方法があるのである。

 では、『舞姫』については、どのようなアプローチをすべきなのだろうか?

 私はかつて、『舞姫』を授業で扱った際、最後にディベートをさせたことがある(宮城県高等学校国語教育研究会『研究集録』に発表したことがあるが、なぜか手元にないので第何号か不明)。クラスを機械的に半分に分け、エリスを弁護する立場と、太田豊太郎を弁護する立場に立たせ、議論させるのである。このように書けば、いかにも、どちらがより一層善かという、渡辺氏の語る『舞姫』に関する歴史上の議論と同じに見えるかも知れない。だが、そうではない。エリスを弁護するのは非常に簡単であるのに対し、豊太郎を弁護することは一見困難であるが、ディベートの必要性に迫られて、あえて豊太郎を弁護する材料を探すと、当時の社会状況から始まって、人間という生き物の弱い本質にたどり着き、そこに人間についての深い洞察が生まれてくる。エリスを弁護するのは簡単であるために、単調な主張を繰り返すしかないのに対し、豊太郎の弁護は、すればするほど人間の本質が明らかになり、そこに見えてくる弱さが自分たちの中にあるものと共通することに気付かされる。そして、当初は豊太郎を非難していた多くの生徒たちが、最終的には、むしろ豊太郎に共感を抱き、一定の同情を寄せるようになる。

 これは、ディベートを通して、豊太郎が善だという結論を出したわけではなく、仮にそうだったとしても、そのこと自体に価値があるわけではない。その作業を通して、人間とはどのような生き物かを考え、見付け出していったことに価値があるのである。「岡目八目」という言葉もあるとおり、第三者が当事者を批判することは簡単である。しかし、人間は状況の中で、平時では思ってもみなかった感情を持ち、思ってもみなかった行動をとってしまうものである。だから、太田豊太郎を非難することは、自分なら絶対にそんなことはしないという思い込みを含むものならば、呑気な戯れ言にさえ聞こえる。

 つまり、『舞姫』にどのようにアプローチすべきか、ということについての私の答えは、人間とはいかなる生き物かという、ある意味で文学においてはひどく当たり前のことを掘り下げる方向に読むべきだということである。たとえ太田豊太郎が極悪非道だったとしても、それは、太田豊太郎という例外的存在にのみ起こり得たことではなく、誰にでも起こり得ることなのだという点を問題にすべきなのである。『舞姫』というのは、そういう読み方をするために、非常に優れた作品だと思う。太田豊太郎という悪人が出て来るから、作品としてケシカラン、などというのは浅はかな話である。

 立身出世、家、国家といった価値観が、当時の人間にとってどれほど重かったかということは、『舞姫』の随所から十分に伝わってくることだし、それで人間について考える材料には事欠かないので、条約改正問題が背景にあることを知るために、あえて初出形で読むべきだという渡辺氏の主張は、氏が力説するほど重要な問題には思われない。時代状況の中で人間がどのように翻弄され、運命を変えていくか、ということを考えさせる点で、決して無意味な指摘ではないが、その改訂によって「自分の出世のために恋人を捨てた駄目な男の物語に変化し、なぜ豊太郎とエリスの仲が引き裂かれたのか説明のつかない作品になってしまった」とすると、『舞姫』をモラルのレベルでしか考えていないという点で、歴代の議論と変わることのない低レベルな見解になってしまう。

 『羅生門』にしても『舞姫』にしても、モラルとは別なところに作者の主眼を見出していかなければ、非常に薄っぺらい作品になってしまうのは当然だと思うのだが、大学教授や評論家が必ずしもそう考えないことを見ると、私が例によって非常識であるからなのだろう。