においの記憶



 職場が近くなったおかげで、今年は私も、我が子を保育所に送り迎えするようになった。我が子の通う保育所は、車の通れる道から100mほど引っ込んだところにある。道路に車を置いて、子供の手を引いて歩いていくと、毎朝、保育所のすぐ手前の家から強烈な「香」のにおいが漂ってくる。それは「香り」と言うよりは「におい」と表現するのが正しいほど強烈なのだが、問題は、その強さではなく、性質なのである。私は、そのにおいをかぐと、瞬時にして、自分がバラナシかカルカッタコルカタ)のヒンズー教寺院の門前かチョウク(道が集まってくる広場)にでもいるような気分になってしまうのだ。

 人間には五感というものがあって、それらはそれぞれに性質が違うのだろうが、嗅覚というのは最も記憶力に富む感覚なのではないだろうか。あまりエンジンの調子がよくないようなバイクの青白い排気ガスのにおいをかぐと、やはり東南アジアか中東のどこかの街にでもいるような気になるし、香辛料のにおいで、ダマスカスを思い出したり、カラチにいる気分になったり、というようなことはけっこう頻繁にあるような気がする。視覚や聴覚の記憶には、自分がその場にいる気分になるような強烈な幻覚を呼び起こすだけの力はない。

 保育所の近くのその家の主が、インドマニアなのか、或いは日本にもそのような香があるのか知らないけれど、私自身のその日の気分によって、そのにおいは現実逃避願望を強めるものであったり、単なるノスタルジーのきっかけであったりする。主はまさか、毎日子供の手を引いて家の隣を取っていく一人の男が、そんな思いを抱いて心を高ぶらせているとは思ってもいるまい。

【補】こんな記事を書いていたところ、偶然、今日の19:30〜NHKの『クローズアップ現代』という番組で、においを商売にどう生かすかという話をやっていた。私は見ていないけど、さもありなん。