マラソン考・・・その2



 私は、自分のやり方を「甘かったな」と思うと同時に、人間もしくは私というのは、私が今まで考えていたよりも、もう少し無理の利く生き物なのかな、と思った。もちろん、人には大きな個人差というものがあるので、村上春樹にできるから私にもできるなどということはないのだが(「小説」や「文章」を書く、という行為を比較してみると更にはっきりするだろう)、この「走る」ということだけに関して言えば、彼にはできても私にはできないという根拠が、時間が取れるかどうかという点を別にすると、とりあえずは探せない。

 こんなことを思い出した。前々任校である石巻高校で、体育の授業に参加していた時のことである。内容は、マラソン大会に備えての長距離走であった。長距離走といっても、たかだか3〜5キロで、だからこそ逆につらいところはあるのだが、それはともかく、上位でゴールする生徒が、いかにも全力を出し切って走りました、という感じである一方、下位でゴールする生徒は、口で「もう死にそう」などと言いながら、実際にはまだまだ余力がある、ということに気付いたのである。このことから分かるのは、速いか遅いかというのは、単に体力の違いではなく、自分の限界をどのように認識するかということなのではないか、ということである。つまり、上位者は、本当の限界を限界と認識するのに対して、下位者は、ちょっとした疲労感や動悸を限界と見誤っている、ということである。

 私は、今の話で言えば、少なくともトレーニングにおいては「下位者」だったのではあるまいか。非常に低いところに自分の限界を見極め、それで限界ぎりぎりのことをやっているような気分に浸っていた。実際にはまだまだ余力というか、できることはあった、ということである。なまじ、年齢のような言い訳材料があるから(それでも、当時の村上春樹よりも今の私の方が数歳若い)、なおさらそのような気分には浸りやすかったに違いない。

 私が持久戦に臨む時によく思い出す言葉が二つある。一つは、50歳代であるにも関わらず、一高の強歩大会で常に上位入賞をしていた「鉄人」T先生の「人間って、ダメだと思った後、案外頑張れるものだよ」という言葉だ。もう一つは、本物の「月曜プリント」でも裏面に引用したことのある池澤夏樹『クジラが見る夢』という本の中の、ジャック・マイヨールに関する言葉だ。マイヨールとは、分かっている限りにおいて、人間として初めて素潜りで水深100mに達した人物である。その彼が水深100mを目指すことに関して、池澤夏樹は「ジャックは深く潜った時の自分の身体の反応に耳を傾け、いわば自分の身体と何度となく親密な議論を重ねた上で、できるという結論に達した」と書く。私はこのフレーズが、表現そのものも含めて大好きだ。

 前者は、今回のマラソンで有難味がすっかり色あせてしまった。ダメだと思った後で、いくら自らを叱咤激励しても、ダメな時はどうにもダメだということを思い知ったからだ。後者に関しては、今まで自分はそのようなことをやって来たつもりでいたが、それが本当に思い込みを脱して、自らを見つめることになっていたのかどうか、疑いが必要になったのである。すなわち、何事かをとことんやり、一度限界に達した経験を持たなければ、自分自身を見極めることはできないのではなかろうか、と思い至ったわけである。私はおそらく限界状況にぶち当たったことがない。それは、自分の身体との対話がまだ十分に成り立たない状況なのではないか・・・。

さて、村上は、前の引用に続けて次のように書く。

 「42キロくらい、適当にやっていればなんとしてでも走れるさ、という傲慢な思いが知らず知らず生まれていたのだろう。健康な自信と、不健康な慢心を隔てる壁はとても薄い。若いときなら確かに「適当にやって」いても、なんとかフル・マラソンを乗り切れたかもしれない。自分を追い込むような練習をやらなくても、これまでに貯めてきた体力の貯金だけで、そこそこのタイムは出せたかもしれない。しかし残念ながら僕はもう若くはない。支払うべき代価を支払わなければ、それなりのものしか手にできない年齢にさしかかっているのだ。」

 ここには、私とは逆の発想がある。私は少しずつ歳を取っているのだから、あまり頑張りすぎるのはよくない、と思い、「2走1休」を基本に、脚が張ったり、体が疲労を実感したりしない範囲でだけトレーニングをするというやり方をしてきた。それでも、42キロをたいした距離ではないと頭から思っていたのは、「山へ行けば、20キロの荷物を担いで、標高差1000m以上かつ20キロの距離を歩くことだって全然特別とは言えないのだから、空身で平坦に近い40キロが困難なわけはない」という理屈があったからである。どうも、その理屈が崩壊の危機にある今、村上流の、歳を取ったからこそ代価を支払う、代価を支払うということは自分を追い込むような練習をやる、という発想に自分も立ってみる必要があるのかも知れない、と思った。そしてそれが出来ないのであれば、むしろ「マラソン」には手を出すべきではないのだ。果たして、自分にとっての限界がどのあたりにあるものなのか、もう少し真剣に見つめてみる必要があるだろう。

 私は、走ることを面倒だとかつらいとか思うことはほとんどない。むしろ爽快であり、楽しいと言ってもよいだろう。しかし、それが自分にとって決して楽しいだけのものではなく、苦しみでさえあるのは、時間を取ることの難しさによっている。ほとんど毎日、最少でも30分、できれば1時間、ほどよい時間帯に連続して時間を確保することは、今の私には非常に難しい。仕事と家事と子どもの問題があるからである。きちんとトレーニングをするためには、いつ、どのようにしてその時間を確保するか、常に忙しく頭の中で段取りを考えていなくてはならない。これは、爽快感など微塵もない、やっかいな作業である。

 走る、ということが、他の趣味、例えば読書と比べて特殊なのは、休むことの意味においてである。読書なら、読みかけ半分で6日間放置しても、それはゼロ、すなわち読書が進まないというだけである。以前読んだところを忘れるではないか、と言う人もいるかも知れないが、それは中断せずに最後まで読んでも同じことである。しかし、走ることは、6日間さぼれば、退化という形でマイナスになる。だからこそ、「何とかして時間を作らなくては」という意識は、義務感を伴い、私にとってはうっとうしいものになるのである。(続く)