小さな学力・大きな学力



 先日のこと、私が担当している3年生の「選択現代文」という科目で、小論文の練習をした。問題は「ゆとり教育の是非について、800字以内であなたの考えを述べなさい」というものであった。いささか難しいお題だが、なにしろたった12名の「選択現代文」は、我が宮水が誇る精鋭部隊である。ある程度の水準のものは出て来るだろうと期待していた。

 結果、彼らなりに悪戦苦闘し、まずまずの作品が提出されはしたのだが、一つどうしても気になることがあった。それは、彼らほとんど全員に共通する「学力」という言葉の使い方、すなわち学力観とも言うべきものであった。

(例1)「従来の教育は暗記重視の詰め込み教育であり、自由な発想は生まれにくい。しかし、ゆとり教育が主流となってから、学力は低下した。」

(例2)「ゆとり教育が発想を豊かにするためなら、学力向上ではなく、考えることを最終目標としてやっていくべきだ。」

 彼らの頭の中では、「自由な発想」や「考えること」は「学力」に決して含まれないらしい。だから、従来の教育=知識重視→学力維持・向上、ゆとり教育=発想・思考重視→学力低下という図式が成り立ってしまう。ごく単純に、知識と思考だけを知的能力の要素と考えるとして、それらはどちらも「学力」を形成するが、従来型の教育では知識:思考=8:2、ゆとり教育では知識:思考=5:5、バランスが異なるだけで、学力の総量はどちらも同じ、というような考え方は出来ないらしい。

 思えば、これは我が宮水の精鋭部隊だけの話ではなく、世間一般の学力観だろう。なぜこういうことになるかというと、知識が数値化できるのに対して、思考は考える力の量を計ることが難しいのはもとより、内容(質)まで考慮するとなると、数値化はありえず、評価そのものが不可能に近いからである。そして数字は「人の心を支配する」と言ってもよいほど力を持つ。

 ペーパーテストで計ることの出来る能力だけが「学力」だという考え方は、教育の世界における悪の元凶の一つと言ってもよいほど困ったことである。現在非常にうるさい「授業時数の確保」にしても、「偏差値の序列に対する過敏」にしても、根底にこの学力観がある。その結果、学校は授業で課外で生徒を拘束し、どんどんスケールの小さな世界へと追い込んで行く。

 先日(6月3日)に、『大きな学力』という本について、少し思う所を書いた。「大きな学力」とは、正に「小さな学力」への批判であるが、「小さな学力」とは、生徒の作文に表れたような、ペーパーテストで計ることの出来る「学力」である。それに対して、「大きな学力」とは、思考力、コミュニケーション能力、観察力・・・といった様々な能力を含む概念である。「学力」をこのように捉え直す時、ペーパーテストの点数を中心とした選考で合否の決まる入試と、それに基づく学校の序列は、相対的に価値を低下させる。

 ペーパーテストで計ることの出来る「小さな学力」が、矮小化されすぎた学力として本当に批判に値するのかどうかは分からない。「小さな学力」の高い高校生が、問題行動を起こしにくく、スポーツでも芸術でもいい成績を残す傾向があるのは確かだ。そこを見て、「小さい」と言うのは机上の論理だ、という反論も可能であろう。しかし、いろいろな高校、大学出身者と職場で付き合っていて、いくら昔のこととは言っても、「偏差値の序列」の無意味性もまた明らかに思える。

 いずれにせよ、生徒の作文に表れたような「学力」の無批判な限定は危険である。「学力」を小馬鹿に出来るのならそれでもよいが、なかなかそうはいかない。「学力」という言葉が、学歴社会とリンクして、非常に重い響きを持つようになってしまっているからである。しかし、「小さな学力」は直ちに「小さな人間」を育てることへと結び付きかねない。いったい、「学力」にどのような要素までを含ませることが出来るのか。「大きな人間」を育てるために、これは考えどころである。