子供・学校・地域を考えるために・・・門脇小学校の映画



 昨晩は、家族で門脇小学校(=門脇中学校)へ映画を見に行っていた。現在、震災後の門脇小学校を舞台にしたドキュメンタリー映画(『宮城からの報告〜子供・学校・地域』)の撮影が行われていて、その最初の4分の1くらいを撮り終えたところで30分間の予告編(『わたしはここにいます〜石巻・門脇小学校・夏』)が作られ、関係者に公開された。私も門小に子供を通わせる親として、その上映会の案内をいただいた、という訳である。

 申し訳ないが、震災という話題性があるから映画になるというだけで、お世辞にも素晴らしいとは思わなかった。所詮は「経過報告」の「予告編」であると言われればそれまでである。しかし、私は方向性の問題として、この映画が最終的に優れたものになる可能性を微塵も感じることが出来なかったのである。理由をいくつか書いておこう。


 まず、話が5月の中旬?、すなわち門脇小学校の校庭からガレキが全て撤去された後の場面からスタートしているのは、なんともしまりがない。間の抜けた感じがする。震災後1年間を追うのであれば、出発点はどうしても「戦場の焼け跡」であった門小でなければいけない。クランクインが間に合わなかったにしても、スチール写真は使えるはずだし、テレビ等からの借用でもいい。とにかく、導入の語りの背景としてだけでもこれは必要である。

 次に、おびただしくある体験談の中から、たった3〜4人の話を長すぎるほどの時間で取り上げていたが、「門小を軸にした映画」の挿話として全く生きていない。理由は、だらだら長いと同時に、彼らの話が門小や門小と地域とのつながりをそれほど反映しているわけではないという点にある。程度の差はあるが、「門小と必ずしも無関係ではないただの体験談」である。今の被災地には、こんな話は掃いて捨てるほどある。また、日和山に逃げた生徒の動きに触れる一方で、門小に避難してきた住民のその後にほとんど(全く?)目を向けていないのも不可解である。

 生徒に津波に備えた都市計画を考えさせる授業も、真剣に現実と向き合わせ、生徒がそれに答えているのか、時事問題をネタにしたただの空想大会なのかというと、判然としないレベルのものである。少なくとも、震災を生き延びた生徒だからこそ、というものには見えなかった。果たして、このシーンがどのような意味を持つのか?

 上映前に、監督が「震災を扱った映画はあるが、その後を追った映画はない」と言っていたが、その後を追えば価値ある映画が出来るというわけではない。そこには、「その後」を見つめるための「視点」が必要なのである。予告編が退屈なのは、野次馬的な好奇心以外に「視点」がないからであり、これが最大の問題だ。

 では、どのような「視点」があり得るのか?どうすればいい映画になるのか、ということについての私の考えを書いておく。

 それは「子供・地域・学校」とサブタイトルを徹底的に大切にすることである。震災で崩壊寸前の地域社会を、その中心にあった学校を軸として観察し、子供と学校と地域社会との関係、学校というものの存在意義、果たすべき役割などを考察するのは興味深いことである。すばらしいサブタイトルだ。だとすれば、避難所と中学校と小学校が同じ建物に存在していたという現実と、そこにどのような交流があったのかということや、門小を今後どうするのかという議論の過程の方が、はるかに重要なシーンになるだろう。門中の校庭にプレハブの門小を建てようかという話は、6月頃にはスタートしていたはずである。また、学区の3分の2か4分の3くらいの場所が壊滅し、新しい都市計画では住宅地として考えられていないのだから、そもそも門小が今後も独立校として必要なのか、石巻小学校に統合でもいいのではないかという議論は間違いなく起こる(既に我が家ではそうした方がいいと言っている)。市も、少なくとも従来の場所で門小を復旧する気はないのか、門小の校庭は市立女子高・女子商のグランドとして使用されるようになるらしい(女子高のグランドが、被災した女子商の仮設校舎の建設によって使えなくなるため)。以前も書いたが、今年の1年生は、昨年度行われた一日入学の時に35名であった。ところが、震災後は、居住地の問題等で激減し、現在の1年生は20人あまりで、そのうち数名は、学区外からわざわざ親が車で送ってくる生徒である。今後更に減少する可能性も否定できない(他の学年でも事情は大同小異だろう)。ここなどは、崩壊寸前の「地域」が最もよく反映されている点である。小学校の今後を考えることは、学校を核として作られてきた(かも知れない)地域社会を考えることになる。だから、これらの問題を追及してこそ、「子供・地域・学校」だと私は思う。


 現在、巷には「震災」が溢れている。テレビ番組でも、書籍でも、雑誌・新聞の記事でも、それらの多くはいかにも「震災」と銘打てば売れるという発想で作られているように思える。大事件が起こった後に、それを扱ったものが「野次馬」の感性でないのかどうか見極め、普遍的な何かにたどり着くのは必ずしも容易でない。

 私の感覚では、映画はテレビ番組よりもはるかに重い。制作にも上映にもはるかに大きな手間がかかるからである。だからこそ、なおのこと内容は優れたものでなければいけない。おそらくは相当の金と労力を費やすのであろう。それに見合う内容のもの、すなわち、あくまでも震災に題材を求め、人々の関心を引きつける材料としつつ、「子供・学校・地域」の関係を、どこの場所でも我がこととして考える材料に出来るような普遍的なものにしてもらいたいものだと思う。