再び「もったいない」



 9月25日に、ケニアの環境活動家でノーベル平和賞受賞者、ワンガリ・マータイさんが死んだ。あまりにも有名な方なので、私のブログで取り上げるにはふさわしくないと思い、自分自身の心の中で、静かにその死を惜しんでいた。

 彼女は、日本に来た時に「もったいない」という言葉と出会い、これが環境保護のキーワードになるとして、世界にそれを宣伝して歩いていた。私は、この言葉と「国民総幸福(GNH)」というブータン国王提唱の概念が、実にお気に入りだ。この贅沢極まりない日本社会の一隅で、私は「もったいない、もったいない」と、ほとんど念仏のようにこの言葉を唱えている。(マータイさんと「Mottainai」は、今年の4月19日に取り上げたばかり)

 と書き始めたのは、また我が家のペットボトルが4本増えたからである。登山の新人大会に行った話は既に書いた。生徒はもちろん、テント泊で自炊だが、顧問の宿泊先は、キャンプ場の集会所のようなところだった。食事は下界から弁当が届く。驚いたことに、毎食ペットボトル入りのお茶が付いた。弁当の容器も、後はゴミとして燃やすだけなのではないかと心配するが、以前も書いた通り、私はこのペットボトルの使い捨てというのが、環境問題と言うよりは、資源浪費の問題として許せないのである。結局、そんなことしても抵抗にも改善にもならないことは分かっていながら、封を切るのがもったいなく、返したところで弁当屋は困るだろうし、大会の主催者にとっても邪魔なだけなので、我が家まで持ち帰ってきてしまった。「緊急時用」という名目で、押し入れに蓄積されていくのである。これがもう何十本になっていることか。

 日本でペットボトルが初めて使われたのは1977年であるが、実はこの後、全国清涼飲料工業会は「小型PETボトルの使用自粛に関する自主規制」というのを実施した。「あまりにも使い捨てに過ぎる」というのが、その理由だったようだ。ところが、1996年4月に某企業がこの「自主規制」を破ってしまい、後はなし崩し的に使用量が増大した、という歴史がある。当初は「良識」も「節操」もあったが、今やそれらは完全に消滅した、ということだと私は嘆いている。

 「便利」と「儲かる」を言い出せば、出来るだけ物(特に石油)は消費した方がいい。しかし、私達は、自分たちの世代の幸福だけを考えていてはいけない。石油は使ったら再生できない。最近、微生物を使って石油(正確には液化炭素or炭素溶液と言うべきか?)を作るという試みも為されているようだが、まだ実用化しているわけではない。だから、目前の「便利」と「儲かる」を無節操に追い掛けてはいけないのである。

 だいたい「リサイクル」がよくない。分別して「リサイクル」に回せば、自分はゴミを出していないと錯覚する。実際には、ペットボトルの処理と再利用は、やろうとすれば相当なエネルギーとコストがかかるので、実質的にほとんど行われていないらしい。それを端的に表すのは、ペットボトルをペットボトルに再生するというリサイクルが、技術こそ開発されたものの、コストが高すぎて2005年に挫折に追い込まれたという例だ。

 マータイさんは亡くなったが、「Mottainai」運動の価値はますます大きくなっている。そのためにも、私達は日々「節操」というものに目を向け、自分たちの消費行動について自問してみる必要があると思う。