「バラへの三つの願い」・・・中国近代の作曲家・黄自(3)



 せっかくの機会なので、黄自のその後について、もう少し書いておこう。

 学生の指導にも作曲にも力を注ぎつつ、学外の更に多くの役職を兼務しながら、多忙な日々を送っていた詳細は、書き出すときりがない。ただ、1936年に、中国人による初めてのオーケストラ「上海管弦楽団」を組織したことは目を引く。

 教務主任として、音専教育の中心にいた黄自だが、1937年になると、「年譜」には、校長・蕭友梅と意見が合わないという記述が見られるようになる。黄自は、教務主任の職を辞して、教育と執筆に専念したいと考えていたようである。黄自はこの時、『音楽史』を書き始めていた。

 ところが、1938年4月8日、黄自は腸チフスにかかってしまう。病状は一時快方に向ったが、5月8日に容態が急変し、翌9日、妻と4歳、7歳の二人の子供を遺し、わずか34歳で亡くなった。臨終の際、妻に向って発した最後の言葉は、「早く医者を呼んでくれ!ここで死ぬわけにはいかない、まだ音楽史が半分しか書けていないんだ!」だったという。


 ところで、1937年7月に日中戦争が始まると、11月に国民党は首都を重慶に移転したが、武漢にも軍を中心とする少なからぬ勢力があった。黄自が亡くなった時期、武漢には第2次国共合作の象徴とも言うべき「国民党軍委員会政治部第三庁」という宣伝組織が生まれた。ここには少なからぬ左翼(共産党)系の作曲家が所属して、抗日戦争勝利へ向けて、国民の戦意高揚に努めていた。黄自の死後、その追悼集会は全国各地で行われたが、この武漢においても、第三庁の芸術分野の中心メンバーが発起して、5月24日に開催された。そこで第三庁を代表して黄自の功績を讃える演説をしたのは、共産党員である有名な劇作家・田漢であった。左翼も、黄自の業績は高く評価していたのである。

 しかし、その後、様相が変化してくる。

 彼らは、第三庁の成立に先立つ1938年1月、「中華全国歌詠協会」を結成し、7月17日、すなわち現在の中華人民共和国国歌「義勇軍行進曲」の作曲者・聶耳(Nie er ニエ・アル)の命日を「中国人民音楽節(音楽記念日)」として定めた。ところが、戦火が武漢に迫り、同年10月、人々が武漢からの撤退を迫られると、国民党地区に残る者は桂林や重慶へ、共産党地区に行く者は延安へと移動した。こうして左翼勢力が拡散したところで、12月、国民党社会部は重慶で「中華全国音楽界抗敵協会(音協)」を立ち上げた。これによって、国民党地区の音楽団体を一本化し、左翼系の「中華全国歌詠協会」をつぶして、共産党勢力を一掃しようとしたのである。

 音協は、1939年5月9日すなわち黄自の命日に、その日を「中国音楽節」と定めた。これによって、国民党が黄自をそれまでの中国で最も優れた音楽家と考えていたことが分かるが、同時に、不幸にして、聶耳=共産党、黄自=国民党という色分けが、故人となった本人達の知らないところで行われ、彼らの名前は政治抗争の道具となってしまったのである。第三庁の音楽部門における中心メンバーで、前年5月24日の追悼集会にも参加していた左翼系作曲家・冼星海(Xian Xinghai シエン・シンハイ)はこの後、黄自の教育者としての業績を評価しつつ、西洋かぶれをして、大衆への接近が不十分なプチブル的音楽家としてこき下ろすようになる。1940年7月17日、共産党の根拠地・延安では、改めて聶耳の命日を「人民音楽節」とすることが決議された。(名称に「人民」を含むかどうかも、国民党と共産党の思想の違いを表していて重要)

 ただ、幸いにして、黄自は多くの優れた作曲家を育てた。その中には、左翼陣営で重要な働きをする者も含まれる。黄自の「四大弟子」と称される賀緑汀、劉雪庵、陳田鶴、江定仙の中でも、特に賀緑汀と劉雪庵は左翼系の音楽運動に尽力し、中華人民共和国でも音楽界の要職を務めた。このことが、後に再評価される原因の一つになったように思われる。

 国民党が祭り上げたこともあり、音専の教授であったことが「学院派(大衆から離れて象牙の塔に閉じこもり、夜郎自大となっているグループ)」とのレッテルを貼られる要因となったこともあって、内戦期においては左翼から高い評価を受けなかった黄自であるが、現在においては、また様相が変わっている。

 1994年に出版された『中国近現代音楽家伝』第1巻には、80人の音楽家の伝記が収められているが、その中で、黄自の伝は24ページに及ぶ。これは、中国近代音楽教育の父と言うべき蕭友梅の26ページに次ぎ、「人民音楽家」との称号を得て英雄扱いを受ける冼星海の20ページを上回る。他に20ページを超える人物はなく、他は全て10ページ前後、あるいはそれ以下である。第2巻に収められた国歌作曲者・聶耳の伝も21ページでしかない。このことは、黄自という音楽教育者・作曲家の、現代中国における評価を象徴していると思う。

 銭仁康は、黄自の死に関し、その死因がシューベルトと同じであることを、何かの因縁であるかのように書き、作曲家であり国際的な言語学者でもある趙元任は、黄自を「中国で最も歌いやすい(歌にふさわしい)作曲家である」と評する。現代の音楽史家たちも、口を揃えて、黄自の最も得意とした分野が「芸術歌曲」であると書く。「三つのバラへの願い」を聴いていると、確かに、とても自然で叙情的な「歌」であると感じる。

 夭折したことと、教育に大きなエネルギーを注がざるを得なかったことから、遺された作品数は決して多くはないし、現在それらを聴く機会を得ることも極めて困難だ。我が家を探しても、録音は、ついに「旗正飄々」1曲しか見つけられなかった。西村朗氏が、どのようないきさつで「玫瑰三愿」を知ったかは知らない。ただ、黄自の歌曲が、このようにして新しい命を吹き込まれることで人に知られ、改めてその作品に目が向けられるなら、私としてはたいへん嬉しく、興味引かれることである。(終わり)