既に一昨年の話となるが、私は、2011年11月26日から28日まで、3日間に渡って「『バラへの三つの願い』・・・中国近代の作曲家・黄自」という文章を書いた(→ http://d.hatena.ne.jp/takashukumuhak/20111126/1322311191)。二村英仁が演奏する黄自の『バラへの三つの願い』(西村朗編曲)を知ったことから、今ではほとんど知る人もない中国作曲界の先駆者・黄自(1904〜1938)について、我が家にあった多少の資料を基に整理したものである。
その時には、黄自の曲の録音を我が家では、「旗正飄々」一曲しか見つけられなかったので、その作品についての印象を書くことは出来なかった。その後、2種類の録音を見つけたので、補足的にその印象を書いておこう。
一つは、昨年夏、北京の大型書店「図書大厦」で見つけた「世紀歌典 第二輯 三四十年代(2)」というアルバムで、これには『玫瑰三愿』(バラへの三つの願い)が納められている。もうひとつは、先日、東京の内山書店で見つけた清唱劇『長恨歌』である。
前者は、ソプラノ独唱曲としての本来の姿で演奏されているが、伴奏はオリジナル(バイオリンとピアノ)とは違い、ピアノだけである。そのような編曲について、何の説明も為されていない所が、いかにも中国である。メロディーが同じであれば、伴奏に手を加えても注記しないというのは、現在においても中国では珍しくないと思う。オリジナルを尊重する意識が極めて低い、もしくは主旋律だけが作品なのである。
後者は、黄自の代表作とされている大規模な作品である(今回買った録音で32分)。「清唱劇」とは「オラトリオ」とでも訳すのが正しいだろう。以前、この曲の録音の存在を耳にしたことがあったが、なかなか探せなかった。今回見つけてみて、その理由が分かった。この曲は、黄自ではなく林声翕の曲集に収められているのだ。
というのも、韋瀚章は白居易の『長恨歌』を基に、洪升の伝奇劇『長生殿』を参考にしながら10楽章形式の詞を作ったのだが、黄自はそのうち、第4,7、9曲を除く、7つの楽章しか作曲しておらず、上海音専で黄自の弟子であった林声翕が、1972年になって、黄自が作曲しなかった3つの楽章を完成させて、10楽章の曲として仕上げたからである。
黄自は音専合唱科の求めによって、この曲を教材として書き始めた。着手したのは1932年の夏で、1933年11月には、7楽章の形で音専の学生によって初演された。黄自が死んだのは1938年5月のことなので、なぜ5年近くにもわたって、三つの楽章が放置されたのかは分からない。また、林声翕が、残り3楽章の構想をどの程度黄自から聞かされていたか、どの程度黄自のメモが残っているのかも分からない。黄自の没後30年以上経ってから補筆されていることから考えても、黄自の意向はほとんど伝えられておらず、林声翕によるかなり自由な創作なのではないか、という気がする。更に、黄自はこの曲にピアノ伴奏を付け、第8曲だけ、ピアノ伴奏譜と弦楽伴奏譜(バイオリン2+チェロ+ハープまたはピアノ)を書いている。今回私が入手した録音は管弦楽伴奏である。この管弦楽伴奏譜が誰によって書かれたかは分からないが、林声翕である可能性が高いと思う。オリジナルに対する意識の低さは、『玫瑰三愿』の場合と同じである。
さて、聴いてみると、その中国臭の少なさにまず驚く。第8曲は、中国の古代歌曲「清平調」に基づく楽章で、確かに、ここは中国の響きを感じることが出来る。しかし、他は林声翕の補った楽章(特に第7曲)の方が中国的であり、黄自自らが書いた部分は、むしろオペラの雰囲気さえある。第1、6、10曲はイタリアオペラ、第2曲はワーグナー・・・かな?
この曲は、女と酒に溺れて国家を顧みず、国を滅ぼすに至った我が儘な統治者(玄宗)を描くことで、上海事変が起こり、満州国が建国された時期に、抗日ではなく共産党掃討のためにエネルギーを費やす国民党(蒋介石)を批判する意味合いを持つと言われている。しかし、そのような辛辣さはまったく感じられない。確かに、心地よい人間の声の響きがあって、声楽曲に特に才能を発揮したという黄自の特質はよく出ていると思う。一方、民衆の生活から離れた、上流階級の音楽であって、左翼陣営から「学院派(音楽における象牙の塔)のリーダー」と評価されたこともよく分かる。欧米の語法で音楽を作るには、まだ未熟であり、いかに黄自といえども、歴史に残る音楽を作ることに成功しているとは言い難い。中国における西洋音楽の黎明期に、優れた作品を書くためには、中国の語法を西洋の語法に適度に取り入れることがどうしても必要だった。そんなことが確認できたような気がした。
(補)中国の近現代音楽史は、どれもこの作品に多くの字数を費やしているが、陳志昂『抗戦音楽史』(黄河出版社、2005年)が最も詳細、夏灧洲『中国近現代音楽史簡編』(上海音楽出版社、2004年)が、あまり評価を交えることなく客観的事実をまとめている好論である。上の記事も、主にこれら2冊とCDの解説冊子を参考として書いている。