初志を貫く



(12月1日付「第2次月曜プリント」より加筆修正して転載)


 日曜日、私は山形市在住の医師Oさんを訪ねた。Oさんは、私が名取市で小学生だった時、市のイベントで山形蔵王にキャンプに行った時の高校生ボランティアであった。ただそれだけの関係である。ところが、なぜかその後、Oさんを始めとするボランティアだった方々との付き合いは続いた。

 途中経過は省くが、その後Oさんは医学部に進んで勉学に追われるようになったし、私も少し遅れて大学に進み、お互いが忙しくなったので、なんとなく疎遠になり、いつの間にか、年賀状だけの付き合いになってしまった。以来、実に30年近くが経つ。

 3月30日の夜、Oさんから電話があった。もちろん、震災に伴う安否確認(見舞い)の電話である。私は感激した。30年近くも直接話す機会のなかった人に電話をかけるのは、なかなか勇気の要ることである。

 私は、この機を逃せば、Oさんと会う機会は一生ないのではないかと思った。そして、身の回りが落ち着いたこの時期に、あえてOさんを訪ねることにしたのである。

 Oさんは、髪が白くなった以外は、30年前となんら変わっていなかった。私はブランクを一切感じることなく、楽しく四方山話にふけったのであるが、話がOさんの仕事のことに及んだ時、私も妻もすっかり驚いてしまった。Oさんは、現在、某法人が経営する山形市内の診療所の院長である。しかし、医師はOさん一人で、診療は週に6日。在宅看護の老人もたくさんいて、診療時間外もいつ呼び出しがあるか分からないので、携帯電話を常に持って、山形市界隈に釘付けという生活をしているとのことだった。それでも「24時間365日勤務中ですよ」とにこにこ笑っている。

 実は、医学部に入った時、Oさんは、「自分は医者になったら無医村に入る」と言っていた。その後、Oさんが大学病院に就職し、更に今の職場に移ったことを知った時、私は、「無医村に入る」というOさんの言葉を思い出しては、実際に医師になると、いろいろな事情が生じて、無医村になど入れるものではないのだな、だから無医村は無医村としてあり続けるのだ、と思っていた。軽蔑したというわけではないが、一抹の寂しさを感じたのは確かだ。

 しかし、この日の話を聞いて、いくら勤務先が山形市内でも、やっていることは無医村の医師とまったく変わらないことを知り、Oさんは、このような形で、やはり初志を貫徹したのだとの感慨を抱いた。最初の志を貫くことも、人のために自分の欲望を抑えることも本当に難しい。昔、私が敬意をもって接していたOさんが、この日、改めて大きな存在に感じられた。