「幸せ」は測れるのだろうか?



(12月1日付「第2次月曜プリント」より、加筆訂正して転載)

 11月18日(金)、3年生の選択の授業でE1の教室を借りた時、入ってきた3年生が「うわっ、何この教室?きったね〜ぇ!!」と大騒ぎしていた。その教室も、24〜25日、遂に大掃除が実現して少しはきれいになった。

 諸君も知るとおり、24日に掃除に参加すべき生徒のうち2名が不在であった。事情のはっきりしていたH君はともかく、K君はサボリ(脱走)と私には見えた。そして、2人のためにペナルティエリアを用意し、25日渡波での実習終了後、北高に戻って掃除を命じたのである。当然私は、「文句を言う、来ない、来ても真面目にやらない」という猛烈な不愉快を覚悟していた。

 ところが、これが杞憂だったのである。2人とも、実に爽やかな態度で、手際よく、真面目に取り組み、10分あまりで全てが終わった。何の不愉快もなく、ジュースの1本もご馳走しようかと思ったほどであった。

 思えば、24日のメンバーも、日頃掃除を手抜きしがちなメンバーが揃っていたが、意外に真面目にやっていた。私にとって気持ちの良い2日間だった。考査や部活の大会で優秀な成績を収めるといった特別なことでなくても、例えば教室掃除のような地味で些細なことであっても、諸君にとっては活躍の場にも成長の場にもなる。そして、気分が明るくなる。これは、私が単純なだけだろうか・・・?


【改めて携帯電話とガムを問う】

 掃除、またはばっちい教室の話と関係するが、最近、時と場をわきまえずにガムをかんでいる人が急増していると思う。私が文句を言っているのを聞く機会が増えたと、諸君も感じていることだろう。

 そもそも、学校という「公」の場でガムをかんでいるなど、それだけで十分ケシカランという意見も強くある。私は、自分が根っからの自由主義者で、規則とか命令は少なければ少ないほどいいと思っている人間だから、「良識」というものが働き、「節度」が保たれている限り文句を言う気はない。しかし、真の自由主義者は、自分の愛する「自由」が汚されていると感じた時、他の誰よりも厳しい弾圧者になり得るということは、知っておいた方がいいだろう。携帯電話も相変わらずだ。真の自由主義者は、携帯電話ごときに心を奪われるという「不自由」を激しく憎む。節度のない自由なら、いっそ自由などない方がいいのである。

(裏面)

11月23日付『朝日新聞』「「幸福度」って測れるの?」

11月19日付『読売新聞』「ブータン「国民総幸福」って?」を引用。

《私のコメント》

 お金がいくらあっても、必ずしも幸福とは言えない。成績がいくら良くても、必ずしも幸福とは言えない。可愛い彼女がいても・・・これはどうかな?

 しかし、お金が無くて不幸だと思っている人は、お金さえあれば・・・と思うだろうし、赤点だらけで悩んでいる人は、成績さえよければ・・・と思っているだろう。だが、それらが実現したら、間違いなく幸福なのかな?

 全ての人が幸福でありたいと願っていながら、「幸福実現党」という政党に票が集まらないのは、「幸福とは何か」についての、一人一人の考え方が違っているからだ。欲の深さと幸福も大いに関係するだろう。どんなに貧しくても、生きていられるだけで幸せだと感じることが出来る人も世の中には存在するし、それも正しい。

 果たして、「あなたは今幸せですか?Yes or No?」という実感以外に、いろいろなデータを物差しにして、幸福度を測ることが可能とは、私には思えない。

 諸君はどう考えるかな?これは自分自身を見つめることにもなる。